谷口村(読み)やぐちむら

日本歴史地名大系 「谷口村」の解説

谷口村
やぐちむら

[現在地名]三郷市谷口

境木さかいぎ村・酒井さかい村の北に位置し、南東は花和田はなわだ村。村の中ほどを葛西かさい用水(本田用水)が流れる。田園簿では花和田村に含まれていたと思われる。「風土記稿」によれば、もとは同村の小名で、元禄四、五年(一六九一、九二)頃の年貢割付状に「花和田村ノ内谷口村」とあり、同八年の検地では谷口村とのみ記されていることから、同六、七年頃に分村したとしている。また同一五年の国絵図に谷口境木村とあるといい、境木とともに分村し、さらに宝暦年間(一七五一―六四)当村から境木村が分村したという。元禄郷帳にも谷口境木村と記載される。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]美里町長谷宮はせみや

長谷庄(長谷下庄)のうち、貴志きし川に沿う最上流部に位置する。東は伊都いと郡に属する長谷上庄のなか(現かつらぎ町)、東は馬場ばば村で、馬場村との境はふくろ谷。中村との境には高野街道に沿う内野うちの峠がある。村の南東、貴志川に入る日影ひかげ谷の小流付近に集落があるので谷口村という(続風土記)。文暦二年(一二三五)五月一一日の長谷郷末弘名田数注文(中家文書)に「谷口弐佰七十歩」とみえる。

近世も高野山領とされ、「続風土記」は村高九六石余、家数一五、人数九三を記す。内野峠は伊都郡と那賀なが郡の境界で、際目きわめ石があり、郡界は際目石から北はかしこ谷、南は山の原を見通し郡界峰に至ると同書にあるが、現在の北の境は賢谷の東の尾根筋となっている。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]武芸川町谷口

武儀川左岸の現武芸川町北部一帯に位置する。東に権現ごんげん(五一六メートル)があり、中部の汾陽寺ふんようじ山南麓に汾陽寺がある。枝郷として武儀川対岸に森本もりもと、現町域北端に寺尾てらおがある(濃陽志略)。「美濃明細記」によれば、天正年間(一五七三―九二)武田信玄に内通したとして織田信長の不審を買った安東伊賀守守就らは、河渡ごうど(現岐阜市)を退き谷口村山中に隠れたとある。慶長郷帳に村名がみえ、高四六七石余。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]浅井町谷口

北野きたの村の北西に位置。北西端の山田やまだ(五四一メートル)上山田かみやまだ(現湖北町)高野たかの(現伊香郡高月町)と接し、山田山南尾根を越えて上山田村へ通じる。南に北野池がある。最澄が北方の己高こだかみ山へ登るとき刻したと伝える爪書地蔵が北部てら山の川辺にある。天正一九年(一五九一)四月六日の浅井郡田根庄谷口村検地帳(東浅井郡志)によれば田畠合二四町七反余・分米合一九五石余。寛永石高帳によると高二六八石余。領主の変遷は村に同じ。正保三年(一六四六)北野村による「はせか谷ノ池」の拡大によって当村の田地三反六歩が池床となったため替地を受取っている(谷口共有文書)

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]永平寺町谷口

九頭竜くずりゆう川の南岸、じよう山の北西麓に位置し、村内を勝山街道が通る。天文一四年(一五四五)一〇月二二日付志比庄下郷闕所分内作職注文(永平寺文書)に「国重分之内壱貫文」として「谷口村馬之五郎」とみえる。慶長五年(一六〇〇)一一月二一日付林伝右衛門尉下知状(同文書)によると「谷口村・古市内津室両村」には永平寺領があり、年次不詳一二月一日付野田勝内家清書状(同文書)によれば、当村内の永平寺領は四〇石であった。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]立山町谷口

白岩しらいわ川と虫谷むしたに川の合流点付近に位置し、南は上白岩村・下白岩村、西は福田ふくだ村、北は四谷尾しだにお村。戦国時代末、土肥氏の家臣が住み着いて開拓が進められたといわれる(五百石地方郷土史要)。慶長一六年(一六一一)の知行所目録(「本多家代々記録」加越能文庫)によると、加賀藩の家臣本多政重の所領として新川郡のうち「谷口村」二六六石余などがある。寛永二一年(一六四四)の本願寺門徒誓詞証文(円満寺文書)に谷口村の市左衛門・仁左衛門などの名が記される。正保郷帳では高三〇二石余、田方一九町一反余・畑方一町。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]池田町谷口

水海みずうみ川が足羽あすわ川に注ぐ付近の山裾にある。美濃方面に通ずる街道の分岐点。当地の上野うわの遺跡から縄文式土器や石器類などが発見され、池田のなかでも早くから開けたと考えられる。地名は永禄三年(一五六〇)の「永代預ケ申清友名四分一之事」(田中家文書)にみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に高二一五石と記される。正保郷帳では田方一八五石・畠方三〇石。

谷口村
やぐちむら

[現在地名]島田市阪本さかもと

初倉はづくら村の西、色尾いろお村の北、大井川右岸に面し、たびたび洪水被害を受けた。当村は慶長(一五九六―一六一五)以後初倉村から分村したという(初倉村誌)牧之原まきのはらの支脈の谷口原台地には愛宕塚あたごづか古墳など古墳が多い。また式内社の敬満きようまん神社もある。寛永一〇年(一六三三)の高二四三石余だが、その後洪水被害により減少したという(初倉村誌)。元禄郷帳に村名がみえ、高八三石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。正徳二年(一七一二)には相良藩領(本多忠晴領知目録)。享保二年(一七一七)にも同藩領(本多忠通領知目録)。寛延四年(一七五一)にも同藩領(本多忠央領知目録)

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]浜玉町大字谷口

玉島たましま川の右岸とうき岳山麓の間の平坦地で、岡口おかぐち村の北西にある。村内を流れる玉島川の支流しん川筋の谷間に古代官道があり、淵上ふちのうえ村の金草かなくさ集落を経て筑前へ通っていた。

平安初期、遣唐使らの船がしばしば到着した「松浦郡橘浦」について、当村に字名として立花たちばな上立花かみたちばながあるので、この村に比定する説もある。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]犀川町谷口

おお村の北、いま川の西岸、大坂おおさか山東麓に位置し、東接する木山きやま村の生立おいたつ八幡神社の南裏手に集落がある。弘治二年(一五五六)四月一三日の大内義長宛行状写(右田文書/熊本県史料 中世篇四)によると、大内氏は怒留湯勘解由左衛門尉が知行していた仲津なかつ郡「谷口村」三町余ほかを右田十郎鑑康に与えている。元和八年人畜改帳によると給人二人分などの高三七九石余、家数一四・人数二九(うち庄屋一・百姓一・名子など六)、牛五・馬二。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]大津市真野谷口町まのたにぐちちよう本堅田ほんかたた六丁目

普門ふもん村の南西、今堅田いまかたた村の西にあり、西は家田いえだ村。「本福寺跡書」には堅田の四月の祭礼日に一味同心する地区として「南谷口」がみえる。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)には「家田谷口」二九六石余とある。寛永石高帳に村名がみえ、高二二七石余のうち山城淀藩領二一九石余・旗本新見領八石余。元禄一一年(一六九八)より堅田藩領で、天明村高帳では同藩領二〇六石余、ほかは新見領。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]敦賀市谷口

余座よざ村・大倉おおくら村の南東にあり、東は山。道の分岐点に位置し、字西谷にしたに池河内いけのこうちへの出入口にあたる。永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(善妙寺文書)に「谷口」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ高三五石余、正保郷帳では田方五七石余・畠方六石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より旗本井川領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋弥大夫(持高一〇石余)、牛馬銀一三匁余、雉札一匁、渋柿二斗代米一斗二升、夫役三分、夫米二俵余、馬足五、牝馬三、家数一一(うち高持五・無高五・寺一)、人数五〇(敦賀郷方覚書)

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]門前町谷口

本内もとうち村の東、はつヶ川中流北岸の河岸段丘と山地に立地。四位しい俊兼としかね両村を南流する谷川が地内で合流。天正年間(一五七三―九二)の一〇月五日付三輪吉宗書下(道下村文書)に「谷口村」とみえ、八ヶ川の鮭川役として二尺が賦課されている。正保郷帳では高四二石余、田方一町八反余・畑方九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高四二石余、免四ツ四歩(能登奥両郡収納帳)

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]三木市細川町垂穂ほそかわちようたるほ

増田ますだ村の東、小川おがわ川の中流域に位置する。北は下芝原しもしばはら村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方一〇二石余・畑方九石余。「寛文朱印留」でも明石藩領。天保郷帳では高一三六石余。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]加西市谷口町

吉野よしの村の西に位置する。中世には坂田さかた庄に属し、当村の氏宮八幡神社は坂田明神を併祀しており同庄の惣鎮守であった。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は延宝六年(一六七八)までは窪田くぼた村と、それ以後は市場いちば村と同じ。正保郷帳では田方二三六石余・畑方二一石余。村高は幕末まで変わらない。天保一一年(一八四〇)の田安領知村鑑大概帳(田安徳川家文書)では反別は田方一六町五反余・畑方三町二反余、家数三六・人数一六一、牛七。

谷口村
やぐちむら

[現在地名]吉見町谷口

古名こみよう村・丸貫まるぬき村の西に位置し、西は下細谷しもほそや村。地内に天文一四年(一五四五)の板碑がある。田園簿では「矢口村」とみえ、田高一八〇石余・畑高四四石余、幕府領。日損水損場の注記がある。元禄郷帳では高三〇七石余。宝暦一三年(一七六三)下総国佐倉藩領となり、以降同藩領で幕末に至ったと思われる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]南部川村谷口

南部川沿いにある農村。南西はすじ村。「続風土記」は「村の北は西本庄村の小名爪谷に接するより谷口の名あり」と記す。村の北西部を南部竜神街道が通る。古代条里制の遺名と思われる塚坪つかつぼの地名がある。慶長検地高目録によれば村高五三〇石余、小物成三斗九升三合。宝暦一〇年(一七六〇)の御上ケ知南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)によると村高は慶長検地高目録とほぼ同じで、そのなかには茶一一斤余分の高七斗三合分が含まれている。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]西区櫨谷町谷口はせたにちようたにぐち井吹台西町いぶきだいにしまち一丁目・同四丁目

櫨谷川中流左岸に位置し、西は菅野すがの村。慶長国絵図に谷口とある。正保郷帳に村名がみえ、田方七一石余・畑方二五石余、芝山あり。明石藩領中里組に所属。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]金沢市金川町かながわまち

なか村の北東に位置。正保郷帳によれば高四七石余、田方一町余・畑方二町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六一石、免五ツ三歩、小物成は山役六八匁・蝋役三匁・漆役一三匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数三・百姓数六(高免付給人帳)

谷口村
やぐちむら

[現在地名]伊奈村谷口

小張おばり村の西に所在。台通だいどおり用水東岸の微高台地上に居住区がある。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本栗本安芸守の知行地一三〇・三六七石と土浦藩土屋氏領(谷原下郷組)六四・六三〇七石があった。

谷口村
たにぐちむら

[現在地名]名立町谷口

名立川左岸にあり、南は躰畑たいばたけ村に隣接し、対岸は車路くるまじ村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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