吉田郡(読み)よしだぐん

日本歴史地名大系 「吉田郡」の解説

吉田郡
よしだぐん

面積:九三・九九平方キロ
松岡まつおか町・永平寺えいへいじ町・上志比かみしひ

福井県の北部ほぼ中央部に位置する。越美えつみ山系に水源をもつ九頭竜くずりゆう川の中流域にあたる。現郡域は大半が山地で、北にかんむり岳、南に大仏寺だいぶつじ山・吉野よしのヶ岳、南東にきようヶ岳など五〇〇メートル以上の山がそびえ、その間を九頭竜川が西流する。北は坂井郡、西は福井市、東は勝山市、南は足羽あすわ郡。なお旧郡域は現福井市の東部地域をも含んでいた。

吉田郡の名は、「延喜式」「和名抄」などにはみえず、古代には足羽郡の一部であったと考えられる。鎌倉時代になって足羽郡より分置されたようで、「正法眼蔵」の奥書に「寛元々年癸卯七月三日丁未書写于越州吉田郡志比庄吉峯寺院主房懐弉」とみえる。しかしその後もこの郡名はあまり使われなかったのか、「太平記」にはみえず、郡域内に構営された足利方の諸城も「足羽七城」と記している。明徳元年(一三九〇)四月二日の銘をもつ長崎ながさき道場(現坂井郡丸岡町の称念寺)梵鐘(現丹生郡越前町浄盛寺蔵)に「当国吉田郡芝原住人」とみえ、これ以後、散見されるようになる。

吉田郡
よしだぐん

中世の俗称郡名。この郡は律令制下の那珂郡から郡内の吉田郷を中心とする地域が、名神大社吉田神社の神郡として分立したもので、おおよその郡域は現在の水戸市域を中心に南は沼を境とし、東は東茨城郡大洗町の北部から那珂湊市を経て那珂郡東海村に達する地域、西と北は明確でないが勝田市の一部をも包括したようである。

「将門記」に「吉田郡蒜間之江辺、拘得掾貞盛・源扶妻」とあり、天慶三年(九四〇)平将門が平貞盛を討つため常陸へ発向、蒜間之江ひるまのえ(涸沼)の近辺で貞盛の妻と源扶の妻を捕らえたことが記され、当時すでに吉田郡と称する一括した単位が成立していたことがわかる。平貞盛の五代の子孫清幹は一二世紀前半、久慈川以南の常陸国の海岸地域一帯に勢力を蓄え、吉田次郎を名乗る。彼は娘を源義光の子義業の妻とした。佐竹昌義の外祖父である。また長子太郎盛幹に吉田郡を、次郎忠幹に行方なめがた郡を、三郎成幹に鹿島郡を譲った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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