御手伝普請(読み)おてつだいぶしん

改訂新版 世界大百科事典 「御手伝普請」の意味・わかりやすい解説

御手伝普請 (おてつだいぶしん)

近世の統一政権(豊臣政権江戸幕府)が大名動員して行った土木工事。豊臣政権下においては大坂城築城聚楽第の造営,方広寺大仏殿の建設,肥前名護屋城や伏見城の築城などがそのおもなもので,〈際限なき軍役〉といわれた朝鮮の役における軍事動員とともに諸国の大名を圧迫した。役負担の内容は人足の提供を主とし,ときにより資材を供出することも含まれていた。その賦課基準は石高で,例えば1594年(文禄3)の伏見城築城の際,徳川家康は役高1万石につき24人の人足を課せられている。なお普請役負担者には扶持米が支給された。

 江戸幕府のもとでの普請役動員は開幕直後の江戸城下町建設にあたって大名から役高1000石につき1人の人足(千石夫)を徴したのに始まる。以後連続的に江戸城をはじめ,上方・西国に対する守りとしての彦根城・篠山城・亀山城,大御所家康居城である駿府城,家康の子息の居城名古屋城・高田城等の築城に大名が動員されているが,こうした城普請を通じて外様大名は幕府の軍役体系に組み込まれていき,一方譜代大名は公儀の普請役負担に対処しうる領知支配の体制(藩体制)を固めていったのである。御手伝普請の労働力は当初はほとんど農民の夫役に結果したとみられるが,現夫の徴発が困難になり,米金で代納される段階になると,賃人足が労働力の主体となった。そのため実際の工事は町人請負か,〈御救〉を理由にした村請負で行われるようになった。大名側は家臣を現地に派遣して工事を督励し,工費を負担したのである。近世中期の御手伝普請においてはこの方式によって川普請が盛んに行われた。宝永期(1704-11)の大和川改修,寛保期(1741-44)の関東水害地(寛保2年江戸洪水)の河川・堤防修築,宝暦期(1751-64)の薩摩藩による木曾川・長良川・揖斐川3川の治水工事(宝暦治水事件)等はその代表例である。こののち安永・天明期(1772-89)にかけて大名の普請役のあり方は大きく変貌し,工事はすべて幕府の監督下に施工され,その間御手伝方(藩)はなんら関与することなく,竣工間近になって形式的に丁場(工事担当区域)を受け取り,数日後に引き渡し,工費を上納するのみの存在となった。寛政期(1789-1801)以降御手伝の方式はさらに簡略化され,丁場の受渡しも行われなくなる。したがって御手伝方の役人が現地に出向することもなく,竣工後幕命により複数の大名が経費を高割で分担し,一定期日内に幕府御金蔵へ納入するしくみとなったのである。普請役の金納化とともに大名側からの依願形式による献金も行われるようになり,これらの大名出金(御手伝金,上納金)は幕府の年貢外貨幣収入の大きな部分を占めることになった。しかし幕末期に海防などへの軍事動員のため大名を普請役に動員することは困難になった。

 御手伝普請が大名の財政を直接的に圧迫したことは多くの例から知られるところであり,各藩とも年貢増徴,家中よりの借上(かりあげ),御用金の賦課,上方商人からの借金等によって費用を捻出し,課役を遂行している。ただし普請役はすべての大名が一様に負担したわけではない。例えば初期においては,大坂の陣後従軍大名に対し幕府は3年間普請役を免除し,また妻子を江戸に置いている大名について普請役の半役を軽減するなどの措置をとっている。幕藩制秩序の貫徹した時期においては,御三家や加賀前田家,老中等役職就任者,溜間詰の大名,長崎警衛を務める黒田・鍋島氏については普請役を賦課する対象から除外している。一般にすでになんらかの課役を務めている場合,他の課役を免除・軽減されることが幕藩制下の奉公の原則であった。なお大名に普請役を負担させて行った土木工事は,城郭の修築,河川の改修のほかには,日光山の東照宮以下の諸堂社,寛永寺・増上寺と将軍やその家族の霊廟・宝塔,禁裏・仙洞御所の造営・修復等があり,5代将軍綱吉の時代の犬小屋建設も大名の御手伝によって行われている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「御手伝普請」の解説

御手伝普請
おてつだいぶしん

助役とも。近世の大名課役の一つ。江戸幕府が行った大規模な土木工事に,領知高に応じて人足や資材,費用を負担した。江戸幕府に先立って豊臣政権も大坂城や伏見城などの築造に大名を動員。江戸幕府のもとでは江戸城・大坂城・駿府城などの城普請,大和川・木曾川などの堤川除普請のほか,御所,日光山・寛永寺・増上寺の諸堂社なども御手伝により造営・修復された。はじめは大名が工事も担当したが,のち経費だけを分担するようになる。

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世界大百科事典(旧版)内の御手伝普請の言及

【江戸城】より

…すなわち92年(文禄1)本丸南側の台地に城域を拡張し,西丸を築くとともにその排土で日比谷入江を埋めて平地化した。1603年(慶長8)江戸幕府の開創により江戸城が将軍の居城となると,工事には譜代・外様を問わず諸大名に御手伝普請が課された。たとえば同年には加藤,福島,伊達など大名70余家を動員して神田山などを掘り崩し,日本橋以南新橋辺までの海岸を埋め立てて市街地を形成,ここに城周辺の町人町を移し,続いて06年には西国大名を主とする工事で城の大拡張を行い,本丸の建物,石垣および二丸,三丸,江戸城北側から南西方面の石垣を築造した。…

【軍役】より

普請役は,江戸,大坂,名古屋などの城と市街の造成を大名に割り当てるもので,家光のころまで繰り返し行われたが,このための人夫の動員も最終的には藩を経て百姓に転嫁された。例えば肥後熊本の加藤忠広(52万石)は,22年(元和8)の江戸城本丸石垣の御手伝普請(おてつだいぶしん)に約5000人の人夫を半年間国元から動員したが,そのうち1200人が藩お抱えの足軽であり,3400人が百姓,400人が水夫(かこ)であった。このような動員は農村を疲弊させ,それは大名財政の窮乏につながっていくが,このことがあらわになったのが,38年(寛永15)の島原の乱と41‐42年の寛永の飢饉であった。…

【御普請】より

…例えば1780年(安永9)に行われた品川用水の悪水吐伏樋の伏替御普請では,材木・釘代・マキ皮代や大工・木挽・鳶人足の賃金は幕府が支出し,人足と空俵,それに江戸より御普請場までの材木・鉄物の運賃は組合諸村に課せられている。なお公儀の御普請においては,幕領・私領の別なく国役を徴して行う国役普請や,大名に費用を負担させて行う御手伝普請も実施された。藩の場合も幕府と同じく藩が主導する工事と,村落レベルで行う工事とがあり,例えば鳥取藩では前者を郡(こおり)普請,後者を村普請といった。…

【普請役】より

…近世初頭,統一政権が施行した大規模な土木工事において,普請役は石高基準の国役(くにやく)として統一的に賦課されたが(国役普請),幕藩制が確立すると,大名に対する普請役は公儀の御普請御手伝(ごふしんおてつだい)として個別的に賦課されるようになった。御手伝普請の内容も,当初は人足の提供を主とするものであったが,現夫(げんぷ)の徴発が困難となった中期以降しだいに変容し,やがて金納化した。武士の場合,ほかに軍役・役儀を勤めていれば普請役は免除・軽減される原則で,幕府直参(じきさん)では無役の寄合小普請(こぶしん)のみ常時普請役を勤めた。…

【美濃国】より

…ともかく水害多発地帯である当国では,17世紀中ごろまでに岡田善同(よしあつ)・善政父子によるとされる〈将監定法〉ないし〈美濃国法〉と呼ばれる当国独自の普請制度が成立した。これによるような国役普請(くにやくぶしん)は,享保~宝暦期(1716‐64)に中断されるものの近世を通じて50件にせまり,18世紀中ごろ以降にはじまる遠隔地大名に課せられた御手伝(おてつだい)普請は十数件,そのほか幕府の手による御救普請,大名手限普請,それに地元農民の手による自普請など大小さまざまな治水工事が行われた。1703年(元禄16)に続く05年(宝永2)の三川をはじめとする美濃諸河川の河道整理(大取払)の国役普請,54年(宝暦4)にはじまる油島締切と大榑川洗堰(あらいぜき)築堤による三川分流の薩摩藩御手伝普請――40万両の出費と藩士その他の犠牲者80余名(宝暦治水事件)――などは,大規模な工事の一つとして有名だが,これらの工事を余儀なくさせた水害多発の原因に,河床の上昇や遊水池の減少,排水の困難さなどがあり,それがおもに新田開発の進行によるものであったということが注目される。…

※「御手伝普請」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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