角牟礼城跡(読み)つのむれじようあと

日本歴史地名大系 「角牟礼城跡」の解説

角牟礼城跡
つのむれじようあと

[現在地名]玖珠町森 角埋

玖珠川の支流もり川とその分流大九郎だいくろう川の分岐点の西側、標高五七六メートルの角埋つのむれ山頂にある中世山城史料上は保安三年(一一二二)一一月一九日の清原通次譲状案(大友文書所収帆足文書)帆足ほあし郷の四至として「角牟礼鐘突堂」とみえているが、久寿期(一一五四―五六)源為朝が築城、弘安期(一二七八―八八)に森朝通の居城になったと伝えている(豊後国志)。文明七年(一四七五)と推定される三月二七日の志賀親家申状(志賀文書)に「くすつのむれの城」とあり、嘉吉二年(一四四二)大友親綱らが肥後小国おぐに(現熊本県小国町など)より朽網山野くたみやまの(現久住町)に打出たとき豊後国内はすべてが親綱の敵地であったが、志賀親賀は松本まつもと(現竹田市)の夫丸を出し、当城落去以後も夫丸を召使ってよいと述べている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「角牟礼城跡」の解説

つのむれじょうあと【角牟礼城跡】


大分県玖珠(くす)郡玖珠町森にある城跡。県の西部に位置する玖珠盆地の北、標高577mの角埋(つのむれ)山の山頂に築かれている。豊後国から豊前国に抜ける交通の要衝地に立地し、三方を急峻な斜面で囲まれた山には険しい岩盤が露出する天然の要害であった。玖珠盆地は平安時代から玖珠郡衆と呼ばれる武士団によって支配されていたが、弘安年間(1278~88年)にはそのうちの森朝通が居城したという。史料としては、1475年(文明7)が初見であり、戦国時代には玖珠郡衆が盆地周辺の城を共同管理していたと考えられている。1586年(天正14)の島津義弘による豊後侵攻の折には、郡衆が城に立て籠もって守ったという。大友氏の改易にともなって、1593年(文禄2)に豊臣秀吉の直臣だった毛利高政が入城し、地域の拠点として城を整備した。しかし、1601年(慶長6)に来島長親(くるしまながちか)が入封し、森藩ができると城は廃城となり、山麓陣屋が置かれた。角埋山の頂上から本丸・二の丸・三の丸が配され、毛利高政によって石垣や櫓(やぐら)門のある城郭に改められたと考えられている。搦手(からめて)門があったとされる場所石積みは、高さ約7m、長さ約100mに及び、穴太(あのう)積みという近江国由来の技法によるものであることが判明した。出土遺物として、16世紀後半から17世紀初頭にかけての輸入陶磁器などがあり、南山麓では陣屋や武家屋敷庭園地割りが確認された。2005年(平成17)に国指定の史跡になった。JR久大本線豊後森駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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