黒田孝高(読み)くろだよしたか

精選版 日本国語大辞典 「黒田孝高」の意味・読み・例文・類語

くろだ‐よしたか【黒田孝高】

安土桃山時代の武将。キリシタン大名。職高(もとたか)の子。初姓小寺。幼名万吉、のち祐隆、孝隆。通称官兵衛、勘解由(かげゆ)。道号如水(じょすい)洗礼名シメオン。姫路の人。豊臣秀吉に仕え、山崎の合戦九州征伐などに功をたて豊前中津一二万石を領する。文祿・慶長の役には渡海。関ケ原の戦いでは徳川方についた。法名龍光院如水円清。天文一五~慶長九年(一五四六‐一六〇四

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デジタル大辞泉 「黒田孝高」の意味・読み・例文・類語

くろだ‐よしたか【黒田孝高】

[1546~1604]安土桃山時代の武将。播磨はりまの人。初姓、小寺。通称官兵衛。法号、如水。織田信長に仕え、信長死後、羽柴秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川方についた。キリシタン大名で、受洗名はドン=シメオン。

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朝日日本歴史人物事典 「黒田孝高」の解説

黒田孝高

没年:慶長9.3.20(1604.4.19)
生年:天文15(1546)
戦国・安土桃山時代の武将。通称の官兵衛および出家剃髪してからの如水の名で知られる。播磨姫路城主小寺職隆(黒田姓)の子。母は小寺政職の養女(明石宗和の娘)。幼名万吉。織田信長の勢力が播磨におよんできたとき,父と共に主家である御着城城主の小寺政職に信長につくことを勧め,天正5(1577)年,豊臣秀吉を姫路城に迎えた。翌6年,荒木村重が信長に背いたとき,単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たったが捕らえられ,城中に抑留されるが,翌年,信長により有岡城が落ちたとき救出され,以後,秀吉に重く用いられることになった。小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころのことである。秀吉に居城姫路城を譲り,自らは国府山城(姫路市)を居城とした。天正10年,清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき,地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策した。本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に,「天下を取る好機」とけしかけたのは孝高だったといわれている。その後,山崎の戦,賤ケ岳の戦,そして四国攻めと戦功をあげ,同14年には秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り,九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行っている。九州攻め後,豊前中津城12万石を与えられたが,17年には家督を子長政に譲っている。しかし,まったく隠居したわけではなく,翌18年の小田原攻めにも軍師として従軍し,このときも小田原城に乗りこみ,北条氏政・氏直父子に会って無血開城の説得を行っている。慶長5(1600)年の関ケ原の戦のときは子の長政と共に東軍に属し,長政は家康に従って関ケ原に出陣していた。豊後中津城で留守を守っていた孝高は,浪人を傭い入れ,旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦い,これを破っている。なお孝高はドン・シメオンの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり,また千利休に茶の湯を学び,利休の茶の湯伝書のひとつ『黒田如水茶湯定書』を著している。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田孝高」の意味・わかりやすい解説

黒田孝高
くろだよしたか
(1546―1604)

安土(あづち)桃山時代の武将。職隆(もとたか)の子。天文(てんぶん)15年11月29日、播磨(はりま)国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路に生まれる。幼名万吉。官兵衛、勘解由(かげゆ)と称し、剃髪(ていはつ)して如水(じょすい)と号した。父職隆のとき播磨国守護赤松氏の一族小寺氏に属し、小寺姓を与えられて姫路城を預かった(孝高のとき黒田姓に復す)。天正(てんしょう)(1573~92)の初めごろ織田信長に通じ、1577年(天正5)中国攻略のため播磨に入った豊臣(とよとみ)秀吉を姫路城に迎え入れ、以後秀吉に属して中国攻略、四国攻略に従軍。87年(天正15)九州平定後、豊前(ぶぜん)6郡を与えられて中津に入った。89年44歳のとき隠居し、家督を長政(ながまさ)に譲ったが、その後も秀吉に従い軍師として活躍。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役にも従軍した。関ヶ原の戦いに際しては九州にあって大友義統(よしむね)を下し、豊前小倉(こくら)の毛利勝信(もうりかつのぶ)を攻め、島津氏を討つため筑後(ちくご)から肥後水俣(みなまた)に進んだ。戦後、長政が筑前一国を与えられたため福岡に移り、慶長9年3月20日京都伏見(ふしみ)で没した。博多(はかた)松原(福岡市)の崇福寺に葬る。キリシタン大名としても名高く、高山右近(うこん)に導かれて洗礼を受け、シメオンと称した。

[柴多一雄]


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改訂新版 世界大百科事典 「黒田孝高」の意味・わかりやすい解説

黒田孝高 (くろだよしたか)
生没年:1546-1604(天文15-慶長9)

織豊政権期の武将。名は官兵衛。勘解由次官,如水円清などを称す。一族は,播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え,初め小寺姓を名のった。織田信長の中国進出にくみし,羽柴秀吉の参謀として軍略家の名をはせた。1578年(天正6)荒木村重が信長に背いたとき,説得に赴いたが失敗した。80年,播磨揖東郡内1万石を与えられたのを始めとして,数々の戦功により,九州征伐後の87年には,豊前6郡を領した。89年,剃髪して家を子長政に譲り,秀吉に近侍し,小田原征伐,文禄・慶長の役などおもに軍事面で活躍した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では,子長政とともに徳川家康にくみし,豊後で大友吉統(よしむね)と戦い捕虜とした。その功で,黒田家は筑前一国を領した。熱心なキリスト教徒で,洗礼名をドン・シメオンと称し,そのキリシタン名を印文にした印判状を発給した。遺言により博多の教会堂に葬られた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒田孝高」の意味・わかりやすい解説

黒田孝高
くろだよしたか

[生]天文15(1546).姫路
[没]慶長9(1604).3.20. 伏見
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。職隆の子。初名は孝隆。通称は官兵衛。法号は如水。洗礼名ドン・シメオン。天正5 (1577) 年,豊臣秀吉が中国征伐で播磨に入ったときに彼に属し,秀吉の西国経営の参謀として活躍した。同 17年,子長政に豊前の所領 12万石を譲ったが,なおも秀吉に用いられ,朝鮮出兵にも参加した。秀吉没後,石田三成と対立し,関ヶ原の戦い (1600) には長政を関ヶ原に出陣させ,みずからは豊前に残って大友義統を滅ぼし,三成派を一掃した。茶人としても有名。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黒田孝高」の解説

黒田孝高
くろだよしたか

1546.11.29~1604.3.20

織豊期の武将。職隆(のりたか)の子。万吉・官兵衛。勘解由(かげゆ)。号は如水。1577年(天正5)主家の小寺氏に織田信長に通じることを勧め,豊臣秀吉を播磨に迎えた。以後秀吉の股肱として,播磨攻略,高松城水攻め,毛利氏との講和交渉などにあたった。87年豊前国6郡をえて中津に入部。89年家督を子の長政に譲った。文禄・慶長の役に出陣。関ケ原の戦では九州で東軍として戦った。伏見で没。1583年高山右近の感化で受洗し,洗礼名シメオン。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒田孝高」の解説

黒田孝高 くろだ-よしたか

1546-1604 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年11月29日生まれ。黒田職隆(もとたか)の子。織田信長につかえ,のち豊臣秀吉の軍師として中国,四国,九州の攻略に功をたて,豊前(ぶぜん)中津(大分県)12万石をあたえられる。関ケ原の戦いでは子長政(ながまさ)とともに徳川方に属した。キリシタンで,洗礼名はドン=シメオン。慶長9年3月20日死去。59歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。前姓は小寺。通称は官兵衛。号は如水。

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旺文社日本史事典 三訂版 「黒田孝高」の解説

黒田孝高
くろだよしたか

1546〜1604
安土桃山時代の武将
通称官兵衛,号は如水 (じよすい) 。長政の父。播磨(兵庫県)の人。織田信長に協力,のち豊臣秀吉に仕え豊前(大分県)中津12万石を領した。兵略にすぐれ隠居後もなお天下をとる気概をもった。またキリシタン大名としても有名で,洗礼名をドン=シメオンといった。

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百科事典マイペディア 「黒田孝高」の意味・わかりやすい解説

黒田孝高【くろだよしたか】

黒田如水

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367日誕生日大事典 「黒田孝高」の解説

黒田孝高 (くろだよしたか)

生年月日:1546年1月29日
安土桃山時代の武将;大名
1604年没

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世界大百科事典(旧版)内の黒田孝高の言及

【九州征伐】より

…秀吉は大唐国の征服をも意図し,その出兵基地として九州を構想していたので,島津氏征服はその構想にも好つごうであった。そこで8月,黒田孝高らを九州に派遣して豊前を攻略させ,また仙石秀久を豊後に派遣して島津氏攻略を開始した。さらに12月に檄(げき)を畿内,北陸などの諸国に伝えて20万余の大軍を構成し,翌87年正月に九州攻略の部署を決定し,3月1日みずから京都を出発した。…

【中津藩】より

…豊前国下毛(しもげ)郡中津(現,大分県中津市)に藩庁を置いた譜代中藩。1587年(天正15)九州統一に成功した豊臣秀吉は,黒田孝高(よしたか)に豊前国京都(みやこ),仲津,築城(ついき),上毛(こうげ)(以上,福岡県)と宇佐,下毛(以上,大分県)の6郡,12万5000石(一説には15万石)を与え,中津藩が成立。1600年(慶長5)関ヶ原の戦ののち,細川忠興が豊前一国と豊後のうち国東・速見両郡の30万石(01年の検地実施後,内高は39万5995石)の領主として中津へ入封。…

【播磨国】より

…織田と毛利の間にあって播磨の諸勢力の帰趨はなお定まらなかったが,78年毛利に通じて信長に反旗をひるがえした三木城の別所長治が籠城2年にして80年正月自刃して開城し,次いでこの年赤松広秀の竜野城,三木通秋の英賀(あが)城,宇野政頼の長水山城が落ちて,播磨平定はここに完了した。秀吉は黒田孝高のすすめで姫路城を本拠と定め,毛利氏攻略を目ざした。しかし本能寺の変(1582)がおきたため,秀吉は姫路を去って大坂城に移った。…

【姫路[市]】より

…兵庫県南西部,播磨灘に臨む商工業都市。1889年市制。人口47万0986(1995)。播磨平野の中央に位置し,古来海陸交通の要地であった。播磨国府,国分寺が置かれ,14世紀中期に赤松氏が城を築いた。江戸時代には姫路藩の城下町で,西国のおさえとして重視された。明治中期には師団が置かれて軍都の性格が強まった。また皮革,紡績,食品などの工業も早くから勃興したが,1937年に日本製鉄(現,新日本製鉄)が夢前(ゆめさき)川河口の広畑への進出を決定して以降,鉄鋼を中心とする重化学工業化が市域南部の臨海地区で急速に進んだ。…

【姫路城】より

…起源は1346年(正平1∥貞和2)赤松貞範が姫山に城を築いたことに始まる。近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。…

※「黒田孝高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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