福本村(読み)ふくもとむら

日本歴史地名大系 「福本村」の解説

福本村
ふくもとむら

[現在地名]英田町福本

現町域の西部、吉野よしの川左岸に立地する川湊。当村北部で河会かわい川が吉野川に注ぎ、両川に挟まれて枝郷の小原こばらがある。東は井口いぐち村、吉野川対岸は倉敷往来筋の青野あおの村。慶長九年(一六〇四)の福本村小原村検地帳(田中文書)では小原が村として扱われるとともに、両村が一村として把握されていたことがわかる。同帳に田四石余・畑二九〇石余とあり、畑八三石余が打出されている。同帳の付箋に慶長一四年検地高として田五石余・畑二九二石余とある。正保郷帳では田四石余・畑二〇七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一〇八石余・開高四六石余、村位は中。この開高は寛文四年(一六六四)頃に普請が成った井堰・井溝による開発で、当村のほかおく村・高下こうげ(現久米郡柵原町)が利用した(明和九年「嘆願書」高下地区共有文書)。津山藩森氏断絶後は幕府領、享保一五年(一七三〇)大坂城代土岐領、寛保二年(一七四二)上野沼田藩主土岐領(美作国郷村支配記)。「東作誌」によれば村高三七一石余のうち八一石余が永荒地で、五斗九升余が郷蔵引。

福本村
ふくもとむら

[現在地名]神崎町福本

粟賀あわが村の南、いち川の支流越知おち川の下流左岸に位置する。中国山地の南端部を占め、ふく山がある。神東じんとう郡に属した。江戸時代初期までは粟賀村とともにしも村と称し、寛永一三年(一六三六)下村から新土野しんどの(のちの福本村)が分村したとされるが(神崎郡誌)、慶長国絵図にはすでに下村の東、粟賀村の南に「新道野村」が記されている。正保郷帳には新殿しんどの村とみえ、田方一二一石余・畑方三一石余、「柴山有・少旱損」と注記される。

福本村
ふくもとむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町福本

下三永しもみなが村の南西に位置する。蚊無奥かなしおく(五四一・六メートル)に発し、黒瀬くろせ川に注ぐ松板まついた(長野川)沿いを村域とし、耕地はこの河谷と北部一帯にある。天文二三年(一五五四)一〇月二三日付大内義長下文(浦家文書)に乃美賢勝に「福本内六貫八百文足」を宛行うとあるが、この時すでに当地域は毛利氏・小早川氏の支配下に入っていたので、実質的効力はなかったと考えられる。

近世の村高は元和五年(一六一九)二九二・一二石であった(安芸国知行帳)が、正徳二年(一七一二)までに四一七・七石とされた(所務役人頭庄屋郡邑受方記)

福本村
ふくもとむら

[現在地名]泗水町福本

合志こうし川中流左岸にあり、古閑こが村の南に位置する。一八世紀後半頃の肥後国絵図(「国誌」補遺所収)には「フノ本」と記される。交通の要所で、近世中期以降竹迫手永会所が置かれた。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると名請人二八(うち屋敷持は九―一二人とみられる)、田二九町八反七畝余、畠・屋敷一五町六反五畝余、分米四八九石七斗余。

福本村
ふくもとむら

[現在地名]邑久町福元ふくもと

吉井川左岸にあり、現長船おさふね町から南流する干田ほした川沿いの平地にある。北は豆田まめだ村、南は宗三そうさん村。江戸時代を通じ本と元が混用された。寛永備前国絵図にみえる芝下しばした村が当村にあたり、高七九九石余。正保郷帳には福元村とみえ同高。「備陽記」では田畑五六町二反余、家数七九・人数四二八。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千二四三石余で蔵入。反別は田四八町九反余・畑七町五反余、家数七〇・人数二八八、牛二五、おか八幡宮の社領二石余、樋二四(守給四石一斗余)、石橋一〇・土橋二一、大川堤の長さ二二一間、池一。

福本村
ふくもとむら

鹿児島市南部、近世の上福元かみふくもと村・下福元村を遺称地とし、両地を中心とする一帯に比定される中世の谷山たにやま郷内の村。康応二年(一三九〇)六月一日の本田忠親寄進状(旧記雑録)に「薩州谷山福本村内登尾水田五段」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)に寄進されている。応永一四年(一四〇七)一月二五日の沙弥成寄進坪付(同書)によると、当村の湯屋薗内水田計一町余が鹿児島福昌寺に寄進された。同二四年一一月二日、島津久豊伊作久義に村内三〇町などを宛行った(「島津存忠書下」島津家文書)

福本村
ふくもとむら

[現在地名]倉吉市福本

三江みえ村の南西、北谷きただに川左岸に位置する。福元とも記す。八橋やばせ赤崎あかさき(現赤碕町)から南下して、久米くめ湯関ゆのせき(現関金町)を経て美作国方面へ抜ける道と北谷川沿いに東西に走る道とが当地で交差しており、古くから交通の要所であった。拝領高は一八九石余、本免は五ツ一分。倉吉組士北代氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二〇〇石余、竈数二〇余、村内に八幡宮を祀る。

福本村
ふくもとむら

[現在地名]郡家町福本

門尾かどお村の南方、私都きさいち川の右岸に位置する。拝領高は三一七石余。本免四ツ八分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高三六四石余、竈数一〇余(史料のママ)。「因幡志」では家数三二、産土神は白兎はくと大明神。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三六三石余、竈数三三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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