相谷村(読み)あいだにむら

日本歴史地名大系 「相谷村」の解説

相谷村
あいだにむら

[現在地名]永源寺町相谷

山上やまかみ村の東、愛知えち川南岸にあり、八風はつぷう街道に沿って集落が続く。永正一五年(一五一八)一二月二一日の南郷諸商売定書案(今堀日吉神社文書)によれば、「あひ谷」や甲津畑こうづはたで荷を下ろさず通過する保内以外の座人・山越商人を見逃さないことなどが取決められた。当地に八風街道を通る商荷の関が設けられており、天文一九年(一五五〇)「相谷坂頭と申関屋」で三河商人の木綿荷が保内商人に没収された(永禄三年一一月九日「保内商人申状案」同文書)

相谷村
あいだにむら

[現在地名]香住町相谷

峠を境として浜安木はまやすぎ村の東に位置し、北は日本海に面する。東は同じく峠を境に浜須井はますい(現竹野町)。北東流して日本海に注ぐ相谷川の谷筋を村域とし、集落は同川の河口左岸に発達。近世の領主の変遷は丹生沖浦にゆうおきのうら村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高四八石余。出石封内明細帳では拝領高五〇石余・改出高七石余、これらの内訳は屋敷一石余・麻畑六斗余・田方四二石余・畑方一三石余、ほかに古新発高六石余・新発高一石余、家数三一・人数一七八。小物成のうちには浜役の塩三石二斗五升五合、貝取役の串鮑二五貝などが含まれていた。

相谷村
あいのたにむら

[現在地名]南関町相谷

二城にじよう(三一九メートル)の南麓に位置し、東は野田のだ(現三加和町)、南は肥猪こえい町、西は小原こばる村と接する。豊前街道南部東西に通る。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「肥猪相谷村」とあり、田一四町一反二畝・畠屋敷一一町一反六畝余・屋敷筆数六、分米二五八石六斗余、家数二二・人数二二、牛馬六、茶畑一反一畝余、桑木四・柿木四、下ケ名に狸穴・まつてん・妙見後・屋敷の内などがある。元禄国絵図・「国誌」にも「肥猪村之内相谷村」とあり、肥猪村からの分村。字馬立またては慶長一三年の検地帳に「肥猪馬立村」とあり、田一三町四反二畝余・畠屋敷九町六反余・屋敷筆数一一、分米二三一石一斗余、家数二二・人数二二、牛馬四、茶畑二畝余、桑木六四・柿木六、下ケ名に天神免などがある。

相谷村
あいだにむら

[現在地名]岩美町相谷

牧谷まきだに村の南東に位置する。拝領高は一〇九石余。鵜殿氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一四四石余、竈数二。享保六年(一七二一)山林が荒廃したため五年間下刈を停止された(在方御定)。安政三年の山論裁許状(岩美町誌)によると当時町浦富まちうらどめ浦富うらどめ村が相谷村地内の山を草刈場としていたが、両浦富は相谷村を町浦富の出百姓と主張し、往古竹美たけみ村と称して一村であった由緒により宇治うじ谷と個人の内林以外は浦富方の山であると申立てた。

相谷村
あいだにむら

[現在地名]岩出町相谷・紀泉台きせんだい

やま村の東に位置し、北東ははら村。北部は葛城(和泉)山脈山地で、南を淡島街道が通る。「続風土記」は「此ノ村の北に堂坂といふ山あり、此山の東西に谷あり、東をよし谷といひ西を西ノ谷といふ、両谷の水南に流れ出て村の北にて合流するを以て相谷と名くといへり」と記す。中世山崎やまさき庄に含まれたと思われる。慶長検地高目録によれば村高二八六石余、小物成一升二合。

相谷村
あいたにむら

[現在地名]五條市相谷町

吉野川北岸に所在。西は落合おちあい川を隔てて紀伊国。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)相谷村上野村堺目者相谷之西之坊主が谷よりくたり上野之前之大谷限」などとみえ、坂合部さかいべ郷に属した。

江戸初期は犬飼いぬかい村とともに上野こうずけ村の内で、寛永一六年(一六三九)以前に分離独立。寛永郷帳に初めて現れ村高一五〇・六三二石、旗本赤井太郎左衛門領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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