白井村(読み)しらいむら

日本歴史地名大系 「白井村」の解説

白井村
しらいむら

[現在地名]向日市森本もりもと

集落は向日丘陵東側の台地に位置し、東は西土川にしつちかわ村。

弥生時代の水田遺構が集落のはずれから発見されているが、文献上に村名が現れることは少なく、初見は応永七年(一四〇〇)正月の三鈷寺当知行山城国寺領目録(三鈷寺文書)で、加地子分の中に「白井前名田参段同(塔頭領花台)」「白井前名田参段」とみえる。寄進か買得かによって、三鈷さんご(現京都市西京区)は白井前に計六段の加地子名主職を保有しており、享徳元年(一四五二)の同寺領目録にも同様にある。

「賀茂注進雑記」は森本郷ほか五郷の賀茂別雷かもわけいかずち社領に対する武士の狼藉を停止し、先例にまかせて神役を勤仕すべしとの文治二年(一一八六)九月五日付の源頼朝下文を収める。

白井村
しろいむら

[現在地名]子持村白井

利根川の右岸、吾妻あがつま川の左岸にあたり、両河川は村域の南端で合流する。東は勢多せた宮田みやだ村・たる(現赤城村)、同郡八崎はつさき(現北橘村)、南西は阿久津あくつ(現渋川市)、北は吹屋ふきや村。中世は白井保の一部。西方、吾妻川に面して守護上杉氏の家宰を務めた白井長尾氏の居城、白井城があり、近世初頭には白井藩が置かれた。文明一八年(一四八六)越後国府(現新潟県上越市)から三国峠を越えて上野国に入った京都常光じようこう院の僧尭恵も「白井戸部亭」で一泊しており(北国紀行)、当地は上越両国間の交通の要衝となっていた。永禄一一年(一五六八)八月一七日の武田家朱印状(写、石北文書)で「白井之内御料所分(中略)五十疋之所」が石北下野守に与えられた。元亀三年(一五七二)には白井内の「如来寺分」「八幡免」が真光しんこう(現渋川市)に寄進されている(八月二八日「武田信玄定書写」真光寺文書)

天正一八年(一五九〇)本多康重が白井城に入り、その後断続はあったものの元和九年(一六二三)まで白井藩が置かれた。この時代、当地は城下町として整備されたが、寛永一一年(一六三四)名寄帳(金井文書)によって、ある程度この町割を知ることができる。西町・東町と大ざっぱに区画され、まもなく新田しんでん町・八軒はつけん町・かみノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。

白井村
しろいむら

[現在地名]上野村楢原ならはら

楢原村枝村の一つ。十石じつこく街道沿いに立地し、信濃国と山中さんちゆう領・武蔵国秩父ちちぶ郡との出入口となり、市場が開かれ、関所が置かれた。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高二〇石余はすべて畑方。寛永八年(一六三一)に関所が設置されていることから、上信国境の村として物資の集散は早くからあったと思われる。延宝三年(一六七五)日限不定による混乱のため関所と山中領三ヵ村が定期市にすることを申請(「穀物市規制訴状」黒沢文書)、同五年に月七日に定められ(「市日証文」高橋文書)、元禄七年(一六九四)の山中領村鏡帳(黒沢文書)によれば、三日・七日・一一日・一六日・二〇日・二四日・二八日の七日間とあり、幕末には一・三・八の九斎市と定められている(文政七年「米穀取引協定書」同文書)

白井村
しらいむら

[現在地名]真壁町白井

加波かば山の西麓、桜川左岸に位置し、北は長岡ながおか村、南は桜井さくらい村。弘安大田文に「白井廿丁大」とある。応永三一年(一四二四)の鎌倉御所足利持氏寄進状案(鹿島神宮文書)

<資料は省略されています>

とあり、真壁安芸守(秀幹)跡の白井郷が鹿島神宮に寄進されている。享徳五年(一四五六)六月三日の足利成氏御教書(真壁文書)には真壁氏の庶子白井修理亮の名がある。慶長一一年(一六〇六)浅野氏領、元和八年(一六二二)浅野氏笠間移封に伴い笠間藩領となり「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は一千七九石余で、幕末は笠間藩領一千一〇〇石余、清浄せいじよう院除地七石、厳島神社・想持そうじ院除地各五石(各村旧高簿)

白井村
しらいむら

[現在地名]和田山町白井

みや村の北東、東河とが谷の最奥部に位置する。元和元年(一六一五)二代目生野奉行の山川庄兵衛が新たに検地を実施、六〇石余の増徴となったため逃亡する百姓もあり、同五年には朝来・養父やぶ二郡内の九五村の百姓が二八ヵ条の弾劾文を携えて江戸出訴、代官を断罪に追込んだ事件の代表になったのは当村の与助らであった(生野史)。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では郡境に近く「白井」とみえ、二筋の道が記される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図にも村名が記される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高三五六石余。幕府領として推移したと考えられるが、明治二年(一八六九)に丹波篠山藩領となる。大森おおもり神社が鎮座。

白井村
しらいむら

[現在地名]相良町白井、榛原町白井

ひる村の東に位置し、東は勝俣かつまた(現榛原町)。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高三〇九石余。掛川預一万石郷村覚では高三六七石余、ほかに同所新田として高二九石余が記され、正保二年(一六四五)幕府直轄領から掛川藩の預地となる。正保郷帳では田方三二二石余・畑方三六石余、掛川藩預、ほかに正法しようほう院領・山宮やまみや大明神領各一石五斗がある。元禄郷帳では高五四六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。享保郷村高帳では掛川藩領。延享三年(一七四六)幕府領となり、寛延二年(一七四九)相良藩領(「寛政重修諸家譜」、寛延四年本多忠央領知目録など)、その後幕府領となるが(前掲諸家譜)、旧高旧領取調帳では三河西尾藩領五四三石余、ほかに神明社・若宮社・天神社正法院玉泉ぎよくせん寺・成円じようえん寺領各五斗などがある。

白井村
しらいむら

[現在地名]小見川町白井

山川やまがわ村の南に位置する。大宮台おおみやだいには桓武天皇の皇子葛原親王を祀るという伝説がある。同所一帯には白井備後がいたという白井砦があったとされる。慶長四年(一五九九)七月の畑方白井村御縄打帳(白井区有文書)が残る。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高五四八石余で旗本酒井領。享保(一七一六―三六)頃は旗本酒井・青山領(「小見川領内諸事覚書」木内神社文書)。青山氏は享保一〇年からの知行で、高一二一石余、物成は米三八石余・永一四九文余となっている(天保一四年「青山領郷村高帳」新行内家文書)

白井村
しろいむら

[現在地名]丹生川村白井

北西は根方ごんぼう村、西は小八賀こはちが川を挟んで小野この村。集落は小さいが日がよく当たり、日面ひおもと通称される。南部は同川沿いに平湯ひらゆ街道が通る。慶長一八年(一六一三)飛騨国郷帳では月出白井つきでしろい村とみえ、高三〇石余。元禄検地反歩帳に白井村として高三六石余、畑六町余。「飛騨国中案内」によれば免は四割七分七厘、家数一六、うち百姓一四・門屋二。

白井村
しろいむら

[現在地名]津和野町名賀なよし

まき村の西、名賀川流域に位置。集落は同川沿いの河谷低地にある。西境に十種とくさヶ峰(標高九八八・八メートル)がある。津和野城下から名賀川沿いに田代たしろ白坂しらざか峠越に長門萩に至る道が通る。寛永一四年(一六三七)の田方検地帳(津和野町郷土館蔵)によれば田高六六石余・反別六町六反余。

白井村
しろいむら

[現在地名]松浦市調川町つきのかわちよう 白井免しろいめん

調川村の南に位置し、調川川が流れる。江戸時代は平戸藩領で、志佐筋に属する。正保国絵図に白井村とあり、高一八〇石余。明暦二年(一六五六)の畑方帳抜書では調川村内に白井免とみえるが、別に調川白井村として松山田まつやまだ免・牟田むた免・大白木おおしろき免・白井免・井渡いと免、鱈尾たらお(太郎免か)田原たばる免が記される。

白井村
しりむら

[現在地名]徳之島町白井しらい

尾母うも村の北西に位置し、北西に犬田布いんたぶ岳がある。面縄うんのー間切喜念きねんのうちで、「三州御治世要覧」に「西東和間切」(面縄間切)一六ヵ村の一として「白猪村」とあるのは当村と考えられる。集落内のミヤという丘に守護神を祀る白井しらい神社があり、ノロ神ミヨノトヨマシを祀るが、南方の目手久めてぐ(現伊仙町)のノロ神と同名であることから目手久からの移住によって開かれたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報