真壁郡(読み)まかべぐん

日本歴史地名大系 「真壁郡」の解説

真壁郡
まかべぐん

面積:二一〇・九二平方キロ
協和きようわ町・大和やまと村・真壁まかべ町・明野あけの町・関城せきじよう

県西北部に位置する。東に雨引あまびき加波かば足尾あしお・筑波などの筑波山系の山々が連なり、その西に続く平坦地を桜・小貝こかい両川が流れ、西端を鬼怒きぬ川が南流する。東は西茨城・新治にいはり両郡、南は筑波郡・下妻市、西は結城市・下館市、北は栃木県芳賀はが郡と接する。

郡名の初見は「続日本後紀」承和四年(八三七)三月二五日条で、「常陸国新治郡佐志能神、真壁郡大国玉神、並預官社、以比年特有霊験也」とあり、「常陸国風土記」に載る白壁しらかべ郡が延暦年間(七八二―八〇六)に真壁郡に改められたといわれる(新編常陸国誌)

〔原始・古代〕

遺跡は鬼怒・小貝・桜三川沿岸の台地に多く、小貝川左岸の小栗おぐり(協和町)周縁部には縄文早期の集落跡とされる宮本みやもと遺跡などがある。古墳は小規模の円墳が多く、小栗山周縁部や鬼怒川左岸の台地に集中する。関城船玉ふなだまにある船玉古墳(方墳)には石室の壁面に赤色顔料で円文と家屋・舟などを描いた壁画がある。

現郡域は古代には真壁・新治両郡に属していた。新治郡の郡衙は現協和町古郡ふるごおりに置かれ、その北の久地楽くじらには郡寺とされる新治廃寺跡がある(いずれも国指定史跡)。新治の名は「古事記」に「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌われ、「常陸国風土記」は郡名の由来を「新治の国造が祖、名は比奈良珠命といふものを遣はしき。此の人罷り到りて、即ち新しき井を穿るに(中略)其の水浄く流れき。仍ち、井をりしに因りて、郡の号に着けき」と記す。「続日本紀」神護景雲元年(七六七)三月二六日条には「常陸国新治郡大領外従六位上新治直子公献銭二千貫、商布一千段、授外正五位下」とあり、新治郡司の活動を伝える。また真壁郡の郡衙は現真壁町古城ふるしろに置かれたとされ(新編常陸国誌)桜川沿いの真壁町伊佐々いさざ桜井さくらい椎尾しいおには条里制の遺構が残る。「和名抄」には真壁郡として神代かみぐま・真壁・長貫ながぬき伴部ともべ大苑おおそね大林おおばやし(大村)伊讃いさの七郷が記される。

天慶の乱では郡内は戦場となり、石田いした(現明野町)に拠った常陸平氏の本宗平国香や服織はとり(現真壁町)に拠った平良兼の居館が平将門の軍に焼払われており(将門記)、多くの伝承と関連地名を残している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報