向日神社(読み)むこうじんじや

日本歴史地名大系 「向日神社」の解説

向日神社
むこうじんじや

[現在地名]向日市向日町 北山

向日丘陵の南端に東面して建つ。旧西国街道に面して石の鳥居が立ち、約三町の石畳の参道をたどって社殿に達する。「延喜式」神名帳の乙訓おとくに郡に「向神ムカヘノ(ムカフノ)」とみえる。旧府社。現祭神は向日神・火雷ほのいかずち神・玉依姫たまよりひめ命・神武天皇。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔祭神〕

「向日社略記」によれば、もと上下二社に分れ、現社地は上社で向日神が、別に下社として火雷神が鎮座、中世初期に下社大破により上社に合祀したという。向日神は「古事記」に須佐之男すさのお命の子大年おおとし神が「娶神活須毘神之女、伊怒比売生子、(中略)次白日神」とある白日神が向日神の誤りかとするのが「神祇拾遺」「古事記伝」などの所説。灰方はいがた(現京都市西京区)大歳おおとし神社がありその子神となるが、いわゆる出雲系の神である。一方火雷神は「山城国風土記」逸文の説話などで、玉依姫と婚姻して賀茂別雷かもわけいかずち神を産んだという神。しかし神名帳には別に「乙訓坐(火)雷神社」があり、これを何社に比定するかは古来論争のあるところで、明治にいたって「特選神名牒」は火雷神社の中世初頭向日神社への遷座説をとり、その元宮として角宮すみのみや(乙訓)神社を式内乙訓坐おとくににます火雷神社に比定した。当社が中世には周辺郷村の惣連合の産土として信仰された頃に、火雷神社も当社に合祀されたものか。「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条に、正六位上の神階が従五位下にすすめられたことがみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「向日神社」の意味・わかりやすい解説

向日神社
むこうじんじゃ

京都府向日(むこう)市向日町北山に鎮座。祭神は向神(むかいのかみ)、乙訓坐火雷神(おとくににますほのいかずちのかみ)、神武(じんむ)天皇、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀(まつ)る。向神は大歳神(おおとしのかみ)(素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子)の子で、向日神(むかいのかみ)といわれる。養老(ようろう)年間(717~724)の創建といい、古くは向神社を上(かみ)社、乙訓坐火雷神社を下(しも)社と称したが、後宇多(ごうだ)天皇の1275年(建治1)下社が退廃したので、上社に合祀(ごうし)された。859年(貞観1)従(じゅ)五位下の神階を授けられ、『延喜式(えんぎしき)』では小社に列して祈年の官幣にあずかった。旧府社。三間社流造(ながれづくり)、檜皮葺(ひわだぶ)きの本殿は1422年(応永29)の造営で、蟇股(かえるまた)、木割(きわり)の手法に室町時代初期の遺構を残し、国の重要文化財に指定。社宝の『日本書紀』神代巻下(紙本墨書、国の重要文化財)1冊は、もとは醍醐(だいご)寺理性院の所蔵本で、南北朝時代の写本として有名。例祭5月1日。

[加藤隆久]

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世界大百科事典(旧版)内の向日神社の言及

【向日[市]】より

…中世には物集女(もずめ)荘,寺戸荘,鶏冠井(かいで)荘などの荘園が設置され,室町期には物集女氏,鶏冠井氏などが城を構えている。向日神社の社前,西国街道に面する向日町は,江戸時代には商人や手工業者の集住した在郷町であった。鶏冠井町には,鎌倉末期に日像によって関西初の日蓮宗寺院として開かれたという真経寺(南北2寺がある),本化日蓮宗本山石塔寺がある。…

※「向日神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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