田井村(読み)たいむら

日本歴史地名大系 「田井村」の解説

田井村
たいむら

[現在地名]玉野市田井一―五丁目・築港ちつこう一―五丁目・八浜町八浜はちはまちようはちはま大崎おおさき後閑ごかん

十禅寺じゆうぜんじ山の西麓と南麓に中心部が開け、東から南は瀬戸内海に面する。枝村に福浦ふくら元川もとがわ池之内いけのうち福原ふくはら(新田)住善寺じゆうぜんじがあった。欽明天皇一七年に児島こじま屯倉が設置された時当地もその一部となったと伝え、一説に田部が田井に転訛したという。鎌倉期には備前佐々木氏の一族が田井氏を称して蟠踞しており、室町初期に田井新左衛門尉信高が足利尊氏について南朝側と戦っている(「太平記」巻一四)。この田井氏は文正元年(一四六六)の佐々木筑前守久信の頃まで存在が確認され、木之崎きのさき地区の田井城を根拠地としていたと伝える。梶原かじわら地区には梶原源太の居城と伝える駿河山するがやま城跡がある。

慶長七年(一六〇二)小早川秀秋の老臣伊岐遠江守真利が常山つねやま城を預けられた時、郡内の他の六ヵ村とともに城付の村として当村六二〇石余も給せられた(「知行方目録」吉川家文書)。小早川家廃絶後は岡山藩領。寛永備前国絵図では高一千九石余。田井村本村は享保六年(一七二一)の田畠七二町一反余(うち塩浜四町一反余)、家数二〇一・人数一千四二六、船一一、池二五(備陽記)

田井村
たいむら

[現在地名]三方町田井

かみうみ(三方湖)西岸から西南岸を占める広域の村。河内こうち集落から北東に流れて三方湖に注ぐ別所べつしよ川流域に耕地が広がる。集落はほかに田井野たいの田立ただち世久津せくづ伊良積いらづみがある。交通は湖に沿って鳥浜とりはまに出るか、河内の南西山越(田烏越)田烏たがらす(現小浜市)に至る以外にない。

中世は大炊寮領田井保として推移。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)にも「四百文 田井保ヨリ」とあってまだ保名がみえる。永禄六年(一五六三)越前の朝倉勢が三方郡に来攻した際戦闘があり、天正一五年(一五八七)八月中旬の入江三川・原進之丞知行宛行状(武長家文書)に「阿波屋越中守佐柿之城ニ、越前之勢取懸ケ籠城之節、田井村へも百人斗類兵参、田井野ニ六拾斗の男、十八、九の男弐人討取、其勢清水の下迄参り候」とある。

三方五湖のうちなかうみ(水月湖)・上ノ湖の漁業権は主として海山うみやま村がもっていたが、当村も伊良積集落を中心に漁業を行い、海山村との間でしばしば権利をめぐっての相論があった。

田井村
たいむら

[現在地名]金沢市田井町・天神町てんじんまち一丁目・桜町さくらまち小立野こだつの五丁目・鈴見台すずみだい一丁目・旭町あさひまち二丁目

石浦いしうら村・笠舞かさまい村の東方、浅野川の中流西岸に位置する。小立野台地の東麓にあたり、北西は城下天神町・金浦かなうら町・田町新道たまちしんみちなどに続く。村域はもと金沢城石川門の東口紺屋こんや坂付近までを含むかなり広い地域にまたがり、集落は城下材木ざいもく町二、三丁目境の剣崎けんさき(現賢坂辻)辺りにあったが、慶長期(一五九六―一六一五)の城下町発展とともに村地は町場化し、徐々に南西方、浅野川岸一帯に移転したという(加賀志徴)正保郷帳では高二二九石、田方一一町二反余・畑方四町余。ほかに新田高九八石余が載る。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四八二石(ほかに新田三石)・免六ツ二歩で、ほかに山役三二匁・蝋役一匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数七・百姓数一四、地内には城下如来によらい寺や同経王きようおう寺の寺領、十村扶持なども含まれていた(高免付給人帳)

田井村
たいむら

[現在地名]久御山町大字田井

御牧みまき郷の東南に位置する農村。東は佐山さやま村・佐古さこ村、南は下津屋しもつや村。古くは木津きづ川の流路より考えて、巨椋おぐら池と木津川を結ぶ津としての性格を有していたと考えられる。

明治一〇年代に成立した「京都府地誌」は村の沿革を、

<資料は省略されています>

と記す。ここにいう有見里については文明元年(一四六九)六月二八日付管領細川勝元内書(石清水文書)に「八幡宮領当国狭山郷并有見」とみえ石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)領であった。また室町時代には当村内に平野ひらの神社(現京都市北区)領もあったことが、「山城名勝志」の引く左の文書によって知られる。

田井村
たいむら

[現在地名]板倉町田井

西をせき川が北流し、東は高野たかの村、南は下田屋しもたや村、北は稲増いなます村に接する。貞和三年(一三四七)一一月一六日沙弥某施行状(居多神社文書)によれば、幕府は居多こた神社(現上越市)の社殿修造のため、「為半分料所、以頸城郡田井保参分弐」を神主花崎介盛光に知行させた。正保国絵図に高五三五石余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(田井区有文書)によれば高四六四石余、うち漆高二斗六升、ほか新田高四五石余が記され、田三二町四反六畝余・畑一町四反六畝余、新田は田二町三反余・畑二町二反八畝歩。

田井村
たいむら

[現在地名]浜坂町田井指杭さしくい

指杭村の北東に位置する。集落は南西流する田井川の上流域に形成され、耕地は同川の下流域に展開。寛政一〇年(一七九八)の豊岡藩奉行宛の差上書(池田家文書)によると、当村は古くは門前もんぜんと称し、指杭村と一村であったという。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」にみえる「たいのさしくい村」は当村と指杭村を合せて指していると考えられる。また同日記には「もとおり村 正法寺」がみえる。「もとおり」は元折と記し、田井・指杭・福富ふくどめ地内にまたがる広い字であるが(福富では本居と記し、史料では元居ともある)、前出の「もとおり村」の集落はのちの田井村地内にあったと思われる。近世に「もとおり村」は久斗くと川の南方対岸に移って福富村となり、正法しようぼう寺も同村地内に移転再興されたと考えられる(「二方考」など)

田井村
たいむら

[現在地名]高梁市高倉町田井たかくらちようたい

近似ちかのり村の北、松山まつやま(現高梁川)の西岸に沿う南北に長い村。対岸の川面かわも押野おしのから渡ってきた新見往来の副道が北西の飯部いいべ高谷こうだに方面へ向かう。皆名かいなかじ(鍛冶)高山たかやま白木しろぎ野原のはら秋町あきまち肉谷にくだになどの集落がある。寛永備中国絵図にみえる田井村(高二六〇石余、山崎家治先知)と肉谷村の一部(高三五石、山崎家治先知)が、のちの田井村にほぼ相当する。正保郷帳では田井村一村で高付され、二九五石余、松山藩領(以後領主の変遷は松山西村に同じ)

田井村
たいむら

[現在地名]姫路市書写しよしや田井台たいだい

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川の右岸に位置し、東は御立みたち村、北は東坂本ひがしさかもと村・西坂本村元禄郷帳に「古ハ西坂本村」との注記があり、江戸時代初期は西坂本村に含まれていた。延宝五年(一六七七)の田畑水帳(田井自治会文書)によれば、この頃に分村し、田方二〇〇石余・畑方四七石余。姫路藩領。天和二年(一六八二)には免四ツ四分(同文書)。元禄郷帳では高二六九石余。天保郷帳では高二八二石余。天明元年(一七八一)の家数四五・人数二六九、牛一五(蒲田組大庄屋文書)

田井村
たいむら

[現在地名]土佐町田井・田井町

田井山の北西から南西にかけて位置し、西は伊勢川いせがわ川を隔てて溜井ぬるい宮古野みやこの両村、北はもり川を隔てて中島なかじま村であるが、森川は村の北で吉野川に合流する。長岡郡に属し、本山もとやま郷の一。

天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に村名がみえ、近世の当村には同地検帳にみえる伊勢川村なども含まれる。田井村は当時もすでに水田化が進み、「ヒノクチ」(樋の口)・「田井ノ井領」「井領ノタン」など用水路の関係を示す記載が多い。また田井坊領の一筆に「トウメン」とあるが、これは堂免で、次筆に「トウノ後」とみえることから、ここに田井坊があったと推定される。

田井村
だいむら

[現在地名]河北町田井

最上川左岸に沿い、北は新町しんまち村枝郷高関たかぜき、南西は溝延みぞのべ村に接し、最上川対岸は荷口にくち(現東根市)大町おおまち(現天童市)。支配はもと上山藩領で、文化一三年(一八一六)幕府領、天保一三年(一八四二)山形藩(秋元氏)領となり、弘化二年(一八四五)以後上野館林藩領。もと溝延六ヵ組のうち東組の支配下にあったが、元和五年(一六一九)東組から四七戸が田井に移住し、正保二年(一六四五)に台村として独立したという(「覚」今田文書)。正保郷帳に台村とあり、田方四五六石余・畑方二〇九石余。寛文一一年(一六七一)の新田御検地大帳(同文書)によれば、一八町六反余の新田畑を三八名の百姓が開発している。

田井村
たいむら

[現在地名]山崎町田井

揖保いぼ川の中流右岸に位置し、南西は五十波いかば村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、慶長一八年(一六一三)備前岡山藩領(「寛政重修諸家譜」など)、元和元年(一六一五)山崎藩領(「寛文朱印留」など)、延宝七年(一六七九)幕府領(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵など)、享保元年(一七一六)安志藩領となり(延享三年「小笠原長逵知行目録」小笠原家文書)、幕末に至る。正保郷帳には田位村とみえ、田方三七〇石余・畠方八三石余。

田井村
たいむら

[現在地名]相生市若狭野町福井わかさのちようふくい

村の西、矢野やの川と支流の小河おうご川の合流点南部の氾濫原に立地する。南部を山陽道が通る。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に六条二二坪の地名として「田井小大僻西神田」とみえる。同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)に地名がみえず、領家(京都東寺)方に属した。建武二年(一三三五)一〇月日の例名西方内検名寄取帳(同文書)では、田井のうちの田地は貞光名・真蔵名・秦五名などに属している。

田井村
たいむら

[現在地名]蒲生町田井

市子松井いちこまつい村の南東、平坦地に位置し、村の中央、集落内をほぼ北西―南東に日野町と八幡町を結ぶ道が通る。田井遺跡から出土した平安時代初期の土器に「田井」「東田」「田司」「田司家」などの墨書銘がある。寛正五年(一四六四)成立の「京城万寿禅寺記」によれば承徳元年(一〇九七)に白河院の里内裏、六条内裏(跡地は現京都市下京区)に建立された万寿まんじゆ(現在は京都東福寺の塔頭)に院の近臣藤原国明が同年「江州田井郷」を寄進している。長禄三年(一四五九)には「万寿寺領江州田井郷」についての訴訟沙汰が起こっている(「蔭涼軒日録」同年五月六日条)。永正八年(一五一一)一一月二八日の日野興敬こうきよう寺の門徒改書(松原興敬寺文書)にみえる「田井」は当地か。

田井村
たいむら

[現在地名]寝屋川市田井町・田井西たいにし町・音羽おとわ町・寿ことぶき町・みどり

茨田まんだ郡に属し、こおり村・木屋こや村の南にある。天井川化したまえ川右岸沿いの後背低地に位置する。東部に条里制の遺構がみられる。前川堤防上を枚方ひらかた(河内街道)が南北に通る。堤防下に弘法井戸とよばれる井戸があり、村内の井戸は金気を含んだためこの井戸が田井の飲料水として用いられた。弘法伝説は一般には、村人が旅の僧をもてなした礼に僧が杖を突立てた場所から清水が湧いたとするが、田井弘法井戸はその逆で、水を請う僧の願いを村人が断ったところ僧が村はずれで杖を突立て湧水したと伝える。

田井村
たいむら

[現在地名]美浜町田井

南流する西にし川の東岸にある。ただし、小名切戸きれとのみは西川西岸にあり、小名田井畑たいばたけに相対する。切戸はその名が示すように洪水時に氾濫することが多かったと伝えられ、西川は古くは切戸の辺りより太平洋に流れ入っていた可能性が強い。建暦二年(一二一二)二月日の後鳥羽院庁下文(熊野速玉大社古文書古記録)薗宝そのたから(現御坊市)の四至のうちに「西限田井・船津・出井」とあり、この田井が当地をさすと思われる。

慶長検地高目録によれば村高三九六石余。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑三一町四反余で石高は慶長期とほぼ同じ。家数一一〇、内訳は本役二〇、半役三一、無役一一、庄屋・ありき各一、年寄二、大工・舟大工・おけや・神主・木挽各一、かぢ二、かごふり・紺屋各三、浜之瀬百姓四、舟方二七。

田井村
たいむら

[現在地名]姫路市網干区田井あぼしくたい

宮内みやうち村の東に位置し、大津茂おおつも川流域に立地する。揖東いつとう郡に属する。姫路城下から室津むろつ(現御津町)へ通ずる道が通る。長享元年(一四八七)と推定される福井庄村名注文(吉川家文書)福井ふくい庄二八ヵ村の一として太居村とみえる。天正一五年(一五八七)九月二四日、木下家定は豊臣秀吉から田井村三〇五石余などを宛行われている(「豊臣秀吉知行方目録」木下家文書)。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は天満てんま村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高五〇〇石、高四一三石余。

田井村
たいむら

[現在地名]勝央町田井

たき川を挟んで植月東うえつきひがし村の南に位置する。北に同川の形成する盆地(通称田井たんぼ)が広がり、北東は美野みの村。元亀三年(一五七二)八月一四日付の佐長書状(美作古簡集)で甚助に加給として与えられた地に「田井村之内時久」があり、五斗代を近年四斗代とする旨伝えている。正保郷帳では田五三六石余・畑四一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一一三石余・開高三七石余、村位は下。

田井村
たいむら

[現在地名]見附市田井町

椿沢つばきざわ村の北、集落は東山丘陵西麓にある。東へ桑探くわさがし峠越で小貫こつなぎ(現栃尾市)に至る。西方に山崎やまざき(現在の山崎町で民家五軒)がある。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)高波たかなみ保の「中条田井」がみえる。明応六年(一四九七)七月五日の大関政憲外三名連署役銭注文(同文書)に古志長尾氏の被官只見氏の給地に「田井本」がみえる。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に高六三〇石八斗余。正保国絵図では高七六二石余、長岡藩領。天保一二年(一八四一)村明細帳(稲田理八氏蔵)では反別六〇町余、家数一二〇、男三二九・女二六九。

田井村
たいむら

[現在地名]由岐町田井

西由岐にしゆき浦の西に位置し、南はやや口の広い入江に臨む。地内に明徳三年(一三九二)銘の板碑が建てられている。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「たい」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「たい村」、寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「木岐太井村」と記される。

田井村
たいむら

[現在地名]臼杵市田井

した村の西、下ノ江川の中流域に位置し、南は大野おおの村。慶長二年(一五九七)臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高六七七石余、うち田方五〇〇石余・畑方一七六石余、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳では田井村組に属し同高。同帳は村役人に新三郎ほか七人、同組惣庄屋として大野村の平右衛門とともに当村の宗円を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では井村組に所属、のち大野組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では本高六二九石余・出来高四七石余。

田井村
たいむら

[現在地名]新旭町あさひ

霜降しもふり村の北、針江はりえ村の西にある。応永二九年(一四二二)の木津庄引田帳(饗庭文書)に田井郷とある。永享二年(一四三〇)九月三日、北野宮寺祠官松光院法眼秀慶と同社祠官禅宜が、京極導誉が観応三年(一三五二)北野宮に寄付した「中庄内田井郷」につき相論しており、秀慶に返付するよう命じられている(御前落居記録)足利義尚(在位一四七三―八九)の袖判のある北野社社領目録写(北野神社古文書)に「中庄之内田井郷」とみえる。天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(饗庭文書)にタイ村・田井村とある。同一一年八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に「田井小池伊小物」とあり、高二五七石余。寛永石高帳によれば高六五四石余、うち六三九石余は幕府領、一四石余は旗本渡辺茂領。

田井村
たいむら

[現在地名]宮津市字田井

栗田くんだ半島北部海岸に面する農漁村。東方の峠を越えた海岸に元田井もとたいを称する所があるが、田井村との関係は不詳。

慶長検地郷村帳に「栗田村之内」として「田井村」とみえるが、その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「栗田田井村」高一九二・四六八石と記される。同九年(一六八一)の延高により一九六石余となった(天和元年宮津領村高帳)

漁業の発達は遅く、イワシ地曳網程度であったが、近世後期には越中網・柔魚締網などを用いるに至ったという。

田井村
たいむら

[現在地名]加西市山田町やまだちよう

山川やまがわ村の南、普光寺ふこうじ川上流の左岸域に位置する。慶長六年(一六〇一)の富家庄田井村検地帳(山田町有文書)が残る。江戸時代の領主の変遷は国正くにまさ村と同じ。正保郷帳では田方二三八石余・畑方三五石余。元禄三年(一六九〇)多可たか(富家庄)二二ヵ村の惣社であった池上いけがみ村日吉神社の新鐘鋳造・鐘銘争論では、田井・山川両村の庄屋が内氏子として参画している(別府家文書)

田井村
たいむら

[現在地名]舞鶴市字田井

大浦半島東北端に位置し、若狭湾に面する。集落は湾奥の平地にあり、半農半漁の村である。

慶長検地郷村帳によれば田井村は高一六七・一九石、戸数は四三戸、北接する成生なりう村に比べると戸数がかなり少ないにもかかわらず、高は五倍以上である。これは同じく海岸に面した村でありながら、成生は地先に好漁場をもって当時から漁業中心であったためであろう。

土目録でも田井村の高は変化なく、内訳は田方一二〇石余、畑方四六石余。半農半漁の村であったため、同書に記す小物成のうちに、四・九五石の海成米、二・九三七石の肴米がある。

田井村
たいむら

[現在地名]龍野市揖西町田井いつさいちようたい

かまえ村の東に位置し、村域は南北に細長い。揖西郡に属する。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に田井村とみえ、小出吉政は当村の一一七石余などを与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一七八石余、高一四七石余。正保郷帳では田方一四四石余・畑方三石余。以後村高は幕末まで変わらない。

田井村
たいむら

[現在地名]大原町田井

赤田あかだ村の西に位置し、大滝おおたき川が流れる。北はたき村。元亀三年(一五七二)八月一四日の佐長書状(美作古簡集)に、加給として甚助に与えた田井村のうち時久分では一町五斗代のところ近年は四斗ずつになったとある。正保郷帳に村名がみえ、田一七五石余・畑五八石余。

田井村
たいむら

[現在地名]大和高田市田井新町・大字田井

葛城川右岸、勝目かじめ村北方に位置する。田井は田部の義か。野口のぐち村西方には属邑西代にしんだいがあった。当村に対する西田井(西田部)の二字化地名であろうか。天永三年(一一一二)一二月三日の某処分状(東大寺文書)によると、西代は「田部」と記されている(→野口村

田井村
たいむら

[現在地名]竹田市田井

大野川支流の十角とすみ川上流域にあり、北東は政所まどころ村、南東は倉木くらき村。入田にゆうた郷田井の遺称地。正保郷帳では倉木郷に属し、田方一五二石余・畑方二二二石余で、茅山有・日損所と注記される。弘化物成帳では倉木組のうち、村位は中、免七ツ三分、田一三三石余(一二町八反余)・畑二二八石余(三七町七反余)・屋敷七石余(七反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑七石余(一二町二反余)がある。

田井村
たいむら

[現在地名]北条町田井

国坂くんさか村の西、北条川右岸に位置し、北は日本海に面する。拝領高は三九七石余、本免は五ツ。藪役銀三匁を課されており(藩史)、鵜殿氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高四三〇石余、竈数二〇余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報