野口村(読み)のぐちむら

日本歴史地名大系 「野口村」の解説

野口村
のぐちむら

[現在地名]各務原市蘇原野口町そはらのぐちちよう蘇原寺島町そはらてらじまちよう蘇原月丘町そはらつきおかちよう蘇原希望町そはらきぼうちよう蘇原興亜町そはらこうあちよう蘇原新栄町そはらしんさかえまち蘇原瑞雲町そはらずいうんちよう蘇原緑町そはらみどりまち蘇原栄町そはらさかえまち蘇原東栄町そはらとうえいちよう蘇原青雲町そはらせいうんちよう蘇原菊園町そはらきくぞのちよう蘇原早苗町そはらさなえちよう蘇原旭町そはらあさひまち蘇原沢上町そはらさわがみちよう蘇原村雨町そはらむらさめちよう蘇原中央町そはらちゆうおうちようなど

各務原台地の中央北部に位置し、南東部は各務かかみ山が迫る。各務郡に属し、北は古市場ふるいちば村・熊田くまだ村。村名は各務野の入口を意味するという。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野帳(安積文書)によれば田高三七石余・畑高一九〇石余、名請人一五五(当村四一・熊田村四〇・古市場村二九・各務村二〇・その他二五)、そのうち当村には一〇―一五石持・一五―二〇石持各一がいた。

野口村
のぐちむら

[現在地名]東村山市野口町一―四丁目・諏訪町すわちよう一―三丁目・美住町みすみちよう一―二丁目・萩山町はぎやまちよう一―五丁目

久米川くめがわ村の西に位置し、西は廻り田めぐりた村、南は小川おがわ村・小川村新田(現小平市)。小町和正氏蔵の天正二年(一五七四)二月五日銘の棟札に「野口村彦兵衛」とみえる。これは願主沙弥道秀が「廻田上下 下宅部」の「天下和順」などを願い薬師堂(東光庵薬師堂)一基を建立した時の棟札で、「野口村彦兵衛」は五人の供養者のうちの一人。田園簿では田一〇七石余・畑四七七石余で幕府領、ほかに正福しようふく寺領一〇石があった。以後幕末まで幕府領。「風土記稿」では瘠土とされ、田地は狭山丘陵付のわずかな溜井を利用した。その後村続きの武蔵野の開発が進み、享保一八年(一七三三)には持添新田として野口新田が成立、天保郷帳では同新田の高一二九石余。

野口村
のぐちむら

[現在地名]岱明町野口

東部をさかい川が南流し、東はなか村・小浜こばま(現玉名市)、北は前原まえばる村と築地ついじ(現玉名市)、西は中程なかほど村、南は山下やました村と接する。弘治三年(一五五七)三月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書)に、鎌倉初期に紀国隆が玉名郡内で二五〇町を得、築地二郎と称した次男国秀に譲った築地五五町の説明に「前原、野口、高道ハ築地之内ニ候歟」と記す。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、田四三町一反一畝余・畠屋敷五一町二反四畝余・屋敷筆数七四、分米八七四石七斗余。同一一年の検地帳では田七五町六反五畝余・畠六三町八反二畝余・屋敷九五筆八町九反四畝余、分米一千五二九石五斗余、家数二四九・人数三六七、牛馬六一、下ケ名にたうの下・新開・天神の木などがある。

野口村
のぐちむら

[現在地名]マキノ町野口

七里半しちりはん越に沿い、南は小荒路こあらじ村、北は越前国境。幕府領から慶安四年(一六五一)上野館林藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高三一三石余とあり、慶安高辻帳では田方二二一石余・畑方五五石余・永荒三六石余、ほかに小物成米五升・銀七二匁余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高三一二石余、反別三五町四反余、家数九九(うち本百姓七三・水呑二六)・人数三八三、馬三三、そのほか医師一がいた。枝郷として路原ちばら村・国境くにざかい村があり、田畑の内訳・家数・人数は本村と枝郷に分けて記されている。

野口村
のぐちむら

[現在地名]川西町野口

仁田にた村の北、北は真人まつと(現小千谷市)。仁田村から真人村への信州道が通る。枝村に二屋ふたつや新田・取安とりやす新田・根深ねぶか新田・狸沢たぬきざわ新田がある。「中魚沼郡誌」によると、当村は初め真人村の孫四郎まごしろうの南方山中、俗に家平やだいら(野平)と称する地にあったが、のち諏訪社の後方大原おおはらという所に移り、さらに現在地に移ったという。「新編会津風土記」では、天文年中(一五三二―五五)に野平から中沢峠という所に移り、さらに現在地に移ったと伝える。各移動地には当時の産土神の跡が残る。正保国絵図に高一二三石余とみえる。

野口村
のぐちむら

[現在地名]中仙町清水しみず 野口

平地の湧泉地帯にあり、南と東は駒場こまば村・国見くにみ(現太田町)、西は梁場新田やなばしんでん村、北は沖野郷おきのごう村に接する。水田から縄文中期・後期の土器片や石器が採集され、また須恵器とその窯跡も発見された。

天正一八年(一五九〇)の戸沢氏領の検地期の写と推定される「仙北御在城の節御支配、仙北領村付帳の写」(色部文書)に「のくち村」がある。同年の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)にみえる「内条村」高一五六石は野口村の一部と推定される。「月の出羽路」には「内城神明宮、内城薬師如来」などと内城の地名がみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三〇一石とある。

野口村
のぐちむら

[現在地名]御前山村野口

那珂川の左岸に位置し、村の東部を川が北から流れ、那珂川に合流する。沿岸には平地がみられ、北部は山地で門井かどい村に続く。西は大畠おおはた村。村内を那珂川に並行して那須街道が走り、これから分れて烏山からすやま(現栃木県那須郡)方面へ通ずる道が門井村へ抜ける。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「野口村」とみえる。「水府志料」によると村の東西一〇町・南北二二町、戸数およそ一二五、水戸までは七里であった。

野口村
のぐちむら

[現在地名]門真市上野口かみのぐち町・南野口みなみのぐち町・野口・常称寺じようしようじ町・宮野みやの町・野里のざと町・千石西せんごくにし町・舟田ふなだ町・大池おおいけ

常称寺村の南東にあり、村域は西隣の横地よこち村と互いに入組む。北部を東西に清滝きよたき街道が通り、南部は千石沼とよばれた低地。京阪電鉄大和田おおわだ駅構内工事の際、地下二メートルの砂層から銅鐸三個が出土した大和田遺跡がある。北部の宮野遺跡では五世紀にさかのぼる須恵器、平安時代後期の土師器・瓦器・須恵器や鎌倉―室町初期のものと思われる土器が出土した。「日本書紀」仁徳天皇一一年一〇月条にみえる茨田まんだ堤の築堤は現ふる川筋と推定され、当地北部の堤根つつみね神社付近に遺構がある。

野口村
のぐちむら

[現在地名]国分市野口町・野口東のぐちひがし野口北のぐちきた・野口・松木町まつきちよう

府中ふちゆう村の南西、国分平野の中央部に位置し、村域は天降あもり川の流域に開ける。近世には国分郷に属した。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には桑西くわのさい郷のうちとして村名がみえる。また同郷のうちにみえる「池袋」は地内の字池袋いけぶくろにあたるか。文明二年(一四七〇)五月二三日の島津立久書状(旧記雑録)に「上井・敷根・池袋其外其方之人々」とみえ、大友親繁の豊前進発を聞いた島津立久は本田兼親に対して、大友氏の豊前進攻に備えるよう池袋氏らに伝えてもらいたいと書送っている。

野口村
のぐちむら

[現在地名]白井町七次台ななつぎだい一―四丁目

七次村の北、神崎かんざき川上流左岸の台地上に位置。川沿いに田地があり、居村は台地下にある。平塚ひらつか方面から木下きおろし道の本道へ抜ける鮮魚道が通り、愛宕神社前の庚申塚に松戸道と行徳ぎようとく道の道標のついた文化三年(一八〇六)の庚申塔がある。慶長七年(一六〇二)四月四日の印西庄白井之郷之内野口村田方水帳(渡辺家文書)によれば、田方二町六反余、名請人三。

野口村
のぐちむら

[現在地名]小牧市野口

大山おおやま村の西にある。中世、石丸いしまる保とともに篠木しのき庄域内にあった。元亨二年(一三二二)の林・阿賀良両村名主浄円等連署請文(円覚寺文書)に「野口」の地名がみえ、同史料によれば当村は春部かすがべ郡司藤原範俊が開発し関東御領として鎌倉円覚えんがく寺が管領してきた。鎌倉末期までには、篠木庄と同様に円覚寺の地頭請が成立していたと思われる。建武元年(一三三四)に円覚寺請所を確認し、最初和談が成立した(円覚寺文書)。しかし国衙側は下地進止権を主張し、約二年後に相論が再燃した。円覚寺の申請により、篠木庄領家広義門院(後伏見女御藤原寧子)が国衙濫妨の停止を院庁に訴え、国衙方に主張があれば訴訟手続をふむべきことを命ずる院宣が発せられた。

野口村
のぐちむら

[現在地名]大垣市野口・野口町

杭瀬くいせ川とあい川の合流点の北、綾里あやさと輪中の南部に位置する。多藝郡に属し、南東の杭瀬川対岸は多芸島たぎしま村。応安元年(一三六八)一〇月一六日の足利義詮御教書写(彰考館蔵古簡雑纂)に「荘内野口・石丸両郷」とみえ、両郷の役夫工米免除を守護土岐頼康に命じている。両郷はどこの庄園に含まれているか不明であるが、多芸たぎ(現養老郡養老町)とすれば、野口郷の遺称地は当地であろう。

野口村
のぐちむら

[現在地名]日原町河村かわむら

日原村の西、湾曲する高津川左岸に支流三畦みうね川が合流する位置にある。慶長七年(一六〇二)の検地高八〇石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一二二石余、田七町四反余・畑一二町七反余(「検地帳」同書)。明治四年(一八七一)の万手鑑は枕瀬まくらせ四ヵ村として当村と枕瀬村・木口このくち村・小直おただ村をあげる。当村の総高二〇〇石余・反別二九町余、家数二八(本百姓二五・百姓下作二・医師一)・人数一一八、大元おおもと神社、牛二〇、米蔵一、鉄砲九、紙漉舟二一。

野口村
のぐちむら

[現在地名]御坊市野口

日高川左岸に位置し、西は日高川を隔てて吉田よしだ村・藤井ふじい村、南はとび山を挟んで熊野いや村。慶長検地高目録によると村高五六七石余、小物成四斗四升九合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では村高六九八石余、町数六七町三反余、家数一三二で内訳は本役六二・半役二一・無役三二・庄屋二・年寄二・ありき二・おけや二・かじや一ほか、人数六二七、牛三〇、馬二〇、御蔵二。

野口村
のぐちむら

[現在地名]日光市野口

大谷だいや川南岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。南部兵陵裾を日光街道が東西に通り、街道沿いに集落がある。西は七里しちり村、東は和泉いずみ村。鎌倉以降の成立とみられる「日光山滝尾建立草創日記」などに野口の大日堂にまつわる話がみられ、文保三年(一三一九)までに成立の「宴曲集別紙追加曲」の補陀落霊瑞には「先は野口の大日堂」と歌われる。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高九〇石。

野口村
のぐちむら

[現在地名]富山市野口・野口北部のぐちほくぶ

本江ほんごう村の南に位置し、東は高木たかぎ村。射水平野の南東端で、村名は当地から南は野原になり、その入口に当たったことによるという(婦負郡誌)。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では村と二ッ屋ふたつや村を含み高八一〇石余、田方四七町七反余・畑方六町三反余、新田高九七石余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高五七〇石余。枝村に野村と二ッ屋村がある。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高六一〇石余・定免五ツ二歩六厘、定小物成として茶役五匁二分五厘。所属組は打出うちいで村と同じ。

野口村
のぐちむら

野口町野口のぐちちようのぐちを遺称とする中世の村。野口庄ともいう(「播州念仏山教信寺縁起」智恵袋)。「峯相記」では新在家の横蔵しんざいけのおうぞう寺の所在を「北条野口村」と記すので、中世の村域はその辺りも含まれたのであろう。元弘二年(一三三二)三月一二日、尊澄法親王は配流先の讃岐に向かう途中、野口に到着している(増鏡)。建武五年(一三三八)五月四日、沙弥某は五箇ごか庄内野口村給主職を三津寺四郎左衛門入道円浄に与えている(「沙弥某給主職宛行状案」井尻家文書)。応永一六年(一四〇九)九月四日足利義持は赤松頼則の譲状にまかせ、子息満則に五ヶ庄野口などを安堵した(「足利義持御判御教書」赤松春日部文書)。赤松再興を企図する赤松貞村は、嘉吉元年(一四四一)八月二六日に野口村の下地一〇石を太山たいさん(現神戸市西区)に寄進した(「赤松貞村下地寄進状」太山寺文書)

野口村
のぐちむら

[現在地名]浜松市野口町・元浜町もとはまちよう山下町やましたちよう

助信すけのぶ村・新津しんづ村の南に位置し、東は船越一色ふなこしいつしき村。当村や八幡はちまん村、浜松城下早馬はやうま町・元目げんもく町一帯は元浜松もとはままつ(本浜松)とよばれた(曳駒拾遺)。中世の引間ひくま市は引間城下の野口村・八幡村付近にあったと推定されている。松平忠頼領郷村帳では高三六五石余、田一〇町三反余、畑三〇町七反余、うち川成五石余、ほか仙林院領三石・万福寺領二石。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳に村名がみえる。

野口村
のぐちむら

[現在地名]日野町里口さとぐち

内池うちいけ村の東にあり、御代参ごだいさん街道が通る。地名は日野谷ひのだにと通称される当村の東方一帯が古くは日野牧のうちで集落がなかったことに由来するという説もある(蒲生旧趾考)。応永二年(一三九五)三月二一日の田地売却状(照光寺文書)に「野口」とみえ、当地源次郎兵衛が所有する「必佐郷内七条三里五坪付」の伊勢神宮領一段(直米二石九斗)を花木妙性房(現照光寺)に売却している。「蒲生郡志」によれば蒲生氏の庶流野口氏の居城があった。天正一二年(一五八四)中村式部少輔領となり、のち羽柴秀次領、文禄四年(一五九五)長束正家領となる。

野口村
のぐちむら

[現在地名]城端町野口

山田やまだ川左岸、南は塔尾とうのお村、北は示野新しめのしん村、西は千福新せんぶくしん村。東には山田川沿いに細長く緩やかな河岸段丘が広がる。村名は千福野という原野の入口に開かれたためと思われる。元和五年(一六一九)の家高新帳では「せと与」に属し、役屋数五。正保郷帳では高二二〇石余、田方一〇町四反余・畑方四町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五六石、免五ツ三歩、小物成は山役六九匁・牛役五匁・栗役二匁五分(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。

野口村
のぐちむら

[現在地名]基山町大字長野ながの字野口

長野村の東、秋光あきみつ川東岸の平地に立地し、東は筑後国筑後野口(現福岡県小郡市)に接している。

村名は寛永一一年(一六三四)「肥前国基肄郡之内上郷御内検家数人別付之帳」(宗家文庫史料)にみえるが、文禄四年(一五九五)の検地・慶長の検地の高が「肥前国基肄壱郡養父半郡郷村畝高帳玄蕃竿并御内検高(無年紀、宗家文庫史料)に記載されているから、文禄期には村が存在したことがわかる。近世は対馬藩領。

野口村
のぐちむら

[現在地名]安濃町野口

きようヶ峰東麓の山間部にあり、戸島としま村の北西草生くさわ村の北にあたる。北谷きただに川左岸の傾斜地に集落がある。近世初期は草生村の一部であったらしく、「三国地志」にも「野口草生属邑」とある。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「野口村」と現れ、田方三二四石余、畑方二五石余であった。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四三、ほかに僑七、人口二〇一、馬四、牛一〇。

野口村
のぐちむら

[現在地名]佐伯市鶴望つるみ 野口・ひら王子丸おじまる坂山さかやま

高畠たかばたけ村の北、臼坪うすつぼ山の西麓に位置。慶長一六年(一六一一)の下野村指出帳(佐伯藩政史料)下野しもの村の構成村として村名がみえ、高一三六石余。郷帳類にはみえず、下野村に含まれたと思われる。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(同史料)では野口村は下野村の枝郷で、地内に平・尾治丸(王子丸)・坂山がある。

野口村
のぐちむら

[現在地名]豊田市野口町

市域北東端部に位置し、飯田街道(国道一五三号)に沿っている。矢作川支流の力石ちからいし川とともえ川支流の石坂川が流れ、周囲は標高二〇〇メートルを超える山々に囲まれている。増慶ぞうけい寺蔵文亀三年(一五〇三)銘の方便法身画像裏書に「足助庄野口郷」とある。近世初めは幕府代官鳥山牛之助支配であった。慶安四年(一六五一)大島おおしま陣屋(現東加茂郡足助町)支配で明治に至る。

水別日面みずわかれひおもの真宗大谷派の増慶寺は推古天皇七年の創建で、もと天台宗と伝える。

野口村
のぐちむら

[現在地名]大町市大字たいら 野口

現大町市の中央部、現大町市街の西方、現高根たかね集落の北方、鹿島かしま川扇状地の扇央部に位置し、水田耕作を主体とする地域である。

野口の名は、文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「百七拾四石壱斗三升三合 野口村」とあるのを初見とする。慶長一九年(一六一四)、松本藩主小笠原秀政が領内蔵入地の代官にあてた蔵入地代官の守るべき条規(「小笠原秀政書状案」大和文書)に、蔵入地諸郷に交じって「野口」の名がみえ、江戸時代初頭には野口村は藩主の直領であったことが知れる。

野口村
のぐちむら

[現在地名]大木町三八松みやまつ

中野なかの村の東に位置し、東は荒牟田あらむた村、北は筏溝いかだみぞ村、南は吉祥きちじよう村。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「のくち村」とみえ、高一四八石余。本高は二〇四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高二七〇石・役高一六一石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一六一石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田九町余・畑二反余・居屋敷一反余。

野口村
のぐちむら

[現在地名]大和高田市大字野口

池田いけだ村西方に位置する。江戸時代初期は幕府領(代官北見勝忠)。村高は七九四・三石。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。延宝七年(一六七九)幕府領に編入されたが、天和二年(一六八二)近江国水口藩(加藤明友。のち下野国壬生藩)領となり、廃藩置県に及んだ。なお慶応四年(一八六八)和州御領分四ケ村惣人数寄(大字池田の松村家文書)では人口五三六(男二七八、女二五六、僧二)、宗派別では一向宗四九二、浄土宗四四となっている。

野口村
のぐちむら

[現在地名]八日市市野口町

糠塚ぬかづか村の西にあり、南は三津屋みつや村、北は内野うちの(現蒲生郡安土町)。村名は東・北・西の三方に広がっていた蒲生野がもうのの入口にちなむと考えられる。村域南部の集落周辺に集中した水田はこま井の流末水を用水源とする。領主は文久二年(一八六二)まで彦根藩。高は五八石余で、幕末まで変化はない。明治物産誌では家数一〇一・人数四五二。

野口村
のぐちむら

[現在地名]中之島村野口

刈谷田かりやだ川左岸、六所ろくしよ興野・なか新田の上流にある。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に野口とみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に三一石五升とある。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)によると毛付二七石八升余・荒五三石六斗余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では物成高三〇石七斗余、家数一三・人数八六。

野口村
のぐちむら

[現在地名]伊那市大字手良野口てらのぐち

棚沢たなざわ川の扇状地上にある村。古代の諏訪郡弖良てら郷はこの辺りを中心としていたものと考えられる。

古来、諏訪社上社の伊那廻りたたえ神事の神使の廻り村になっていて、文明二年(一四七〇)の「伊那廻湛日記」(矢島文書)に「野口」とみえる。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳には箕輪領の項に、村位は上、村高は「四百拾九石五斗八合七勺 野口」とあり、江戸時代を通じて幕府領に属し、千村氏の預り所であった。

野口村
のぐちむら

[現在地名]古川町野口

みや川右岸、戸市といち川の川口にある。南の袈裟丸けさまる村とは中世の野口城跡により隔てられている。越中西街道の宿場で、当地以北は宮川の大峡谷の難所となるので、荷物の積替えも行われた。慶長一八年(一八一三)の飛騨国郷帳では小島こじま郷に属し、「野口すへ実共」とあり、高一五〇石。元禄検地反歩帳では高五〇石余、田四町余・畑二町五反余。

野口村
のぐちむら

[現在地名]野津町野津市のついち 野口・野口住宅のぐちじゆうたく

竹下たけした村の南にあり、野津川が東を北流したのち西に向きを変えて流れる。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には竹下村など七ヵ村と一括された野口村の一冊が含まれ、村位は下。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高九三石余・出来高七九石余、田方六一石余・畑方一一〇石余。

野口村
のぐちむら

[現在地名]小坂町小坂 野口

鹿角郡北部、南流する小坂川上流域、標高三一七メートルの大岱おおたい東麓に位置し、南は濁川にごりかわ村。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高二六石五斗余でうち蔵分四石二斗余、戸数三六軒でうち二又にのまた一軒、大森平おおもりだいら六軒。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳では高二六石六斗余ですべて蔵分。

野口村
のぐちむら

[現在地名]大野市天神てんじん

大野城の南東にある大野町の枝村の一。古くは印内いんない村ともよばれた(越前国名蹟考)。享禄三年(一五三〇)二月二七日の崇聖寺寺領目録(洞雲寺文書)に野口がみえる。初め村は二番上にばんかみ町の南に接していたが、安永四年(一七七五)・文政五年(一八二二)の両度にわたり城下大火の火元となったことから、同六年の春、藩の命により約三〇〇メートル南に屋敷替をした。

野口村
のぐちむら

[現在地名]板取村 野口

南流してきた板取川が湾曲して流路を東に変える左岸に位置し、東は中切なかぎり村。上流の杉原すぎはらにある新宮しんぐう神社蔵の神像の背面墨書銘には、慶長一八年(一六一三)の紀年銘があり、「濃州板取保野口源空」と記される。野口は当地を示すのであろうか。元禄郷帳に板取野口村と記され、高九石余。

野口村
のぐちむら

[現在地名]熊野市飛鳥あすか町野口

神山こうのやま村の南、大又おおまた川右岸に沿う。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「野口村」とみえる。近世初期の家数八(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。北山組に属する。

野口村
のぐちむら

[現在地名]明日香村大字野口

たちばな村西方、古代の飛鳥と檜隈野ひのくまのの中間に立地する。「台記別記」に「野口御庄」、「多聞院日記」文禄二年(一五九三)一〇月八日条に「野口庄」の名がみえる。

文禄検地は一三三石。検地奉行石田正澄。近世を通じて高取藩領。享保一七年(一七三二)四月五日京都町奉行所が天武持統合葬陵を調査、敷地回りを五八間と定め、同年以来、山年貢一・〇二九石のうち〇・〇三六一石の「公儀より御引米」があった。

野口村
のぐちむら

[現在地名]麻績村野口

江戸時代松本藩領麻績組に属していた。麻績川を隔てて北岸の下井堀しもいぼり村と対し、矢倉やぐら村の南西に接する。

天正検地の際は野口女淵村一〇七石九斗四升三石と高付けされており、享保九年(一七二四)当時の石高は二二七石六斗四升三合である。

野口村
のぐちむら

[現在地名]豊川市野口町

市田いちだ村の南にある。慶長七年(一六〇二)旗本水野忠直の知行となり、寛永一六年(一六三九)に幕府領、元禄五年(一六九二)鍋島長行の知行になった後は地頭の異動は行われなかった。

野口村
のぐちむら

[現在地名]彦根市野口町

馬場ばば村・南川瀬みなみかわせ村の東部に両村に挟まれて位置。慶長高辻帳に村名がみえ高二二三石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で三ツ九分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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