深谷村(読み)ふかだにむら

日本歴史地名大系 「深谷村」の解説

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]徳地町大字深谷

土田つちだヶ岳の北西に位置する山間村。北は三谷みたに、西は八坂やさか小古祖おごそ、南は山畑やまはた、東は鯖河内さばごうちの各村と接する。村内を御所野ごしよの川・深谷川・茂知木もじき川が流れ、その流域に狭い水田を形成、集落も川筋に点在する。萩藩領で徳地宰判に属した。

伊勢神宮の御師が祈祷札を配った折の中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「ふか谷の六郎左衛門殿、おひ」とみえる。元和元年(一六一五)一一月一五日付の榎本織衛家文書(「閥閲録」所収)に「同所(下徳地)深谷村弐百弐拾四石七斗弐升六合之地」と村名がみえる。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]綾瀬市深谷・寺尾南てらおみなみ一丁目

東境をたで(深谷川)が流れ、東は本蓼川ほんたでかわ村、南は葛原くずはら(現藤沢市)、西は早川はやかわ村、北は蓼川たでかわ村およびかしわ(現海老名市)に接する。南を中原なかはら道、北を横浜道が通る。

寛元三年(一二四五)五月一一日の渋谷定心置文(県史一)に「ふかや」「しもふかや」がみえ、渋谷氏一族の所領で、「ふかや」は幕府から人夫要請があった場合負担することが決められており、「大庭御まき」を引く時には、「ふかや・ふち心のさいけ」は一〇〇文を、「おちあひ・しもふかや」では二〇〇文の銭を負担するとされた。一方「かみふかや」は正応元年(一二八八)六月二七日の関東安堵下知状(県史二)で、渋谷重村の「吉田庄上深谷郷内田在家」に対する支配が安堵された。

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]八尾町深谷

城生じようのう村の西、井田いだ川右岸にある。当村北部は枝村の下深谷村として独立していた。天正一〇年(一五八二)二月一〇日の知行方目録(越佐史料)に「ふか谷分一円」とみえ、上杉景勝により当所などが神保信包に与えられている。寛永一八年(一六四一)頃の諸寺道場締役覚書(聞名寺文書)に「深谷村正有」とみえ、八尾聞名もんみよう寺に道場役として綿高一二匁・代銀二匁余を納めていた。正保郷帳に村名がみえ、高五四一石余、田方三三町七反余・畑方二町三反余。承応四年(一六五五)の村御印では草高五五四石余(免四ツ五歩)で、林弥次右衛門など一四人の給人地、蔵入分は一二四石余、小物成銀は四七匁余(村々御印物等書上)

深谷村
ふかやむら

[現在地名]白石市福岡深谷ふくおかふかや

北蔵王連峰の東側裾野から白石川河畔の地域にあり、北はみや(現刈田郡蔵王町)、東は白石川を境に小下倉こしたぐら村、南は児捨こすて川を境に長袋ながぶくろ村・八宮やつみや村と接する。西部の裾野高原地帯を上深谷、白石川の作る沖積地に近い東部の低地を下深谷とよぶ。奥州街道が村の東南端を南北に通る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「四十貫百文 ふかや」とある。伊達氏天文の乱後の行賞で「かつたの庄ふかやの内、八けん在家」などが遠藤修理亮に宛行われ、かつ棟役・段銭・諸公事免除の特典を受けた。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]栗駒町鳥矢崎とやさき

里谷さとや村の北、三迫さんのはさま川の支流鳥沢とりさわ川の左岸に立地する。北西は三迫の鳥沢村、東は同はた(現金成町)。当村も三迫に属し、三迫大肝入の管轄。かみ街道が通り、南西のいわさき村まで一里、北の一関いちのせき(現岩手県一関市)までは四里一町の道程であった。「安永風土記」に往古は金田かねた庄と称したとある。

寛永八年(一六三一)および一〇年の鳥沢村・深谷村弥五衛門分年貢納目録(石母田家文書)が残り、また同八年・一〇年・一三年の納目録(同文書)に本高二二貫九四八文とあり、岩ヶ崎城主石母田氏の知行地があった。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]鰺ヶ沢町深谷町

赤石あかいし川支流川崎かわさき川の上流山谷の間に小集落が点在する。

貞享四年(一六八七)これまでの福村御蔵ふくむらおくら新田が深谷村と改称したという(青森県租税誌、西津軽郡史)。貞享四年の検地帳に村高五八・九七石、うち田方四七・〇三三石、畑方一一・九三七石とあり、田位は上田から下々田まである。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は下とある(平山日記)

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]小浜市深谷

桂木かつらぎ村の南に位置し、南は三重みえ(現遠敷郡名田庄村)、東はひのき山の山裾、西はみなみ川。檜山南側字真谷まだにより西流して下窪瀬しもくぼせで南川に合する深谷川に沿って奥深谷・深谷・谷口たにぐち、谷口の北にやや離れて田茂谷たもだにの集落がある。山が極度に迫った谷あいの集落である。中世は名田なた庄に属し、延文五年(一三六〇)四月一三日付覚円譲状(大徳寺文書)に「同庄内田村内別納深谷名」とみえ、弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百文 ふか谷」とある。正保郷帳によれば田方六八石余・畠方二四石余。慶応二年(一八六六)の御領分中村々高書上写(安倍家文書)に記す家数七三。

谷口西方の深野ふかの地域は江戸時代には三重村に属したが、明治初年深谷村に合併されたらしい。

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]勝山市野向のむき町深谷

滝波たきなみ川の右岸、高尾たかお岳の南麓にあって、東は薬師神谷やくしがみや村を経てたに峠に通じ、西は竜谷りゆうたに村を経て勝山街道に通じる。元和七年(一六二一)の田地請負証文(山口家文書)に村名がみえる。正保郷帳によれば田方三九二石余・畠方一八八石余。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。

小字中堂なかのどう梅主うめもと神社があるが、近辺には寺之下てらのした門前もんぜん東大門ひがしだいもん・西大門・東桜町ひがしさくらまち・西桜町・ほりなどの小字が分布し、かつて寺院およびその門前集落があったことを物語る。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]飯舘村深谷・伊丹沢いたみざわ

東の草野くさの村の枝郷。東流する新田にいだ川の北岸に位置し、北は前田まえた村、西は臼石うすいし村、南は伊丹沢村など。明暦二年(一六五六)草野村から分村(相馬藩政史)。天保郷帳では同村に「古者 草野村・松塚村・深谷村・伊丹沢村四ケ村」と注記される。明暦二年の高七一石余(相馬藩政史)元禄郷帳では草野村枝郷と注記され高四九一石余。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]戸塚区深谷町

東は汲沢ぐみざわ村、南は原宿はらじゆく村、西は上俣野かみまたの村、北は和泉いずみ村に、北東は中田なかだ村に接する。中央に山王さんのう台があり、北方の大丸だいまる山に連なる。南にみなみ山があり、北東の赤松せきしよう山に連なる。村岡むらおか川が汲沢村から流れて村内を屈曲し、上俣野村に入る。谷中やなか堀が和泉村から上俣野村に流れる。皇国地誌は、中世は村岡郷のうち深谷村と称し、延宝年間(一六七三―八一)に鎌倉郡に属したと伝える。正保国絵図に村名がみえる。

近世は初め幕府直轄領、宝永三年(一七〇六)旗本土屋領となる。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]鹿島台町深谷

東は大松沢鹿島台おおまつざわかしまだい丘陵に深く入込んだ谷底地東側の切砂きつさ坂で広長ひろなが村と、西は二反平にたんだいら大迫おおばさま村と接し、南は品井しない沼に面する丘陵上にある。正保郷帳に田一六貫四一文・畑一貫九五四文とあり、ほかに同所新田四六七文があり、水損と注記される。元禄一五年(一七〇二)の知行入会(茂庭家文書)や宝永元年(一七〇四)の松山茂庭・平渡茂庭朱印状並知行目録(同文書)によれば、松山茂庭氏一〇貫九〇八文、平渡茂庭氏九貫三九文、大番士武田氏の給所と松山茂庭氏の侍屋敷一軒、足軽屋敷二軒があった。「安永風土記」によれば田二一貫五五五文・畑三貫二〇文で、うち蔵入は四貫七四四文、給所は一九貫八三一文、人頭一六人(うち沽却禿一)、家数一七(うち借屋一)、男四六・女三八、馬二七、作場通用のかっこ舟五とあり、舟は品井沼周辺の谷地が「流れ」であったため、沼の水位が上がった時の農作業と、品井沼における漁業に使用したと思われる。

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]岩国市大字天尾てんのお 深谷

天尾四ヵ村のうちで、吉谷きちだに村の北方山地に細長く入りこんだ谷間の村。西は萩藩領南桑なぐわ(現玖珂郡美川町)、北は西畑にしばた(現玖珂郡美和町)。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に「天尾の内」として村名がみえる。

慶安四年の村高六四石が、享保一一年(一七二六)には少し減少して、高五三石余になっていたらしい。当時の人口一五八人、牛一五頭、馬一頭(享保増補村記)

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]金沢市深谷町

堅田かただ村の北東に位置。正保郷帳によれば高八〇石余、田方三町二反余・畑方二町一反、新田高二三石余(新田免四ツ四歩一厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二四石、免六ツ六歩、小物成は山役一三一匁・蝋役一匁・野役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数一一(高免付給人帳)。安政二年(一八五五)の高は寛文一〇年時とほぼ同じで、家数二四(うち頭振四)・人数一六〇、引免一ツ五歩(「高免家数人数等書上」亀田文書)。日蓮宗本蓮ほんれん寺は文明八年(一四七六)日珍が開いたと伝え、永正元年(一五〇四)の火災ののち同七年本圀ほんこく(現京都市山科区)の日朝が再興したという(貞享二年寺社由緒書上)

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]福井市深谷町

日野川の左岸に位置し、丹生山地を西へ入込む小谷中にある山村。対岸は三屋みつや地蔵堂じぞうどう海老助えびすけの諸村。

文安二年(一四四五)八月三日付越前国白毫寺十輪院東寺修造料足奉加状(東寺百合文書)があり、「越前国吉田郡藤島庄深谷白毫寺十輪院」と記されている。正保郷帳の足羽あすわ北郡に村名がみえ、田方一六二石余・畠方三二〇石余。地形上からか畑地が多い村であった。元治元年(一八六四)の子歳両夫雪垣川除小役綿麻山手銀諸掛仕し覚帳(岩佐家文書)によれば、百姓のほとんどが高持であるが、五七戸のうち、一七石五升を最高に大多数は一〇石未満の零細農で、生業は周囲の広大な山林に依存し、燃料の柴のほか、武家屋敷で重用された良質な屋根材の萱や、黄色染料の原料となる刈安草などを福井城下に運んで商っていた。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]出島村深谷

いち川右岸にあり、北は川を境に上大堤かみおおつつみ三ッ木みつぎ根本ねもと各村に接する。江戸初期に土浦藩領となり、元禄郷帳の村高は一千五八石余、天保郷帳では一千五一九石余に増加する。江戸中期の土浦領新治郡深谷村絵図(出島村史)によれば、村中央を土浦に至る道が通り、その両側は畑地で、かみ池から流れる川沿いに水田が広がる。

中妻木なかつまぎ真言宗豊山派の吉祥山法蔵ほうぞう寺があり、開山は応永一三年(一四〇六)と伝える。

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]北区八多町深谷はたちようふかたに

神付かんづけ村の南、淡河おうご川支流屏風びようぶ川上流に位置する有馬ありま郡の村。慶長国絵図に村名がみえ、高は西の西畑にしばた村と合せて一八二石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳には西畑村の名はみえず、深谷村として一八二石余。正保郷帳では「深谷村西畑村・鳴川村・滝神之村・林村」として高は四七二石に急増する。これは慶長七年(一六〇二)から元和六年までの領主有馬豊氏による増高が計上されたためと考えられるが、周辺各村に比して高率であり、この時期に開発が進められたことが推測される。

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]大塔村深谷

東は向山むかいやま村、南は小谷こだに村、北西は麦粉森むぎこもり越の道が鮎川あゆかわ村へ通じる。日置ひき川から分れた小谷の上流に位置する山間集落。「続風土記」に「名義名の如し」と記される。慶長検地高目録によると村高二四石余、小物成三・九一二石。四番組に属し、「続風土記」によれば家数一六、人数九三。

深谷村
ふかだにむら

[現在地名]清川村左右知そうち

左右知村の北、奥岳おくだけ川東岸にあり、北は津留つる村。正保郷帳に村名がみえ、田高二六石余・畑高二七石余、宇田枝うたえだ郷に属し、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では高六一石余。近世初頭大友家が没落するとその家臣加藤新次郎は当地で帰農し、その子九郎右衛門が岡藩から小庄屋に任じられて以後、加藤家が江戸時代後期まで小庄屋、のち組頭を世襲した(「郷中旧家系図」中川家文書)

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]富来町深谷

前浜まえはま村の北東、高爪たかつめ山西麓にある山間の村。北は鳳至ふげし館分たちぶん(現門前町)。正保郷帳の高四三石余、田七反余・畑二町一反余、免四ツ六歩六厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高四七石、免五ツ二歩、小物成は山役二九匁・苦竹役一七匁、鳥役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

深谷村
ふかやむら

[現在地名]夷隅町深谷

国吉苅谷くによしかりや村の北西に位置する。寛文四年(一六六四)の堀直景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、苅谷藩領。元禄郷帳では高五七一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一〇四、上野国吉井藩領のほかは幕府領と旗本伊藤・能勢・後藤領および与力給知。なお吉井藩領となるのは延宝二年(一六七四)とみられる(寛政重修諸家譜)

深谷村
ふかたにむら

[現在地名]すさみ町佐本深谷さもとふかたに

古座こざ川の支流佐本川の渓流沿いにある山村。慶長検地高目録に「須谷村」とあるが誤記と思われる。村高二八石余、小物成七斗二升二合。「続風土記」では家数一〇、人数四〇。

深谷村
ふかやむら

[現在地名]三沢市三沢 深谷

三沢村の南に位置する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に百石ももいし(現上北郡百石町)の支村として深屋とみえ、家数七とある。享和三年(一八〇三)仮名付帳では家数六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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