志田郡(読み)しだぐん

日本歴史地名大系 「志田郡」の解説

志田郡
しだぐん

面積:一二九・〇〇平方キロ
鹿島台かしまだい町・松山まつやま町・三本木さんぼんぎ

宮城県中央部に位置し、南部は加美かみ丘陵から延びた大松沢おおまつざわ丘陵があるが、最高所は標高一四〇・一メートルの高寺たかてら山である。郡域北部を多田ただ川を合流した鳴瀬なるせ川が東流し、広大な穀倉地帯である大崎おおさき平野が展開する。鳴瀬川は郡東端部で南へ曲流し、南東端で東流してきた吉田川を合流する。吉田川と鳴瀬川の合流点一帯にはかつて大湿原地帯を周囲にもつ品井しない沼があったが、近世以来周辺野谷地は次々に開発され、最終的には近代に入っての干拓により姿を消し、今は広大な水田地帯となっている。郡の東端を南北に東北本線が通り、また国道三四六号が走る。郡西端には国道四号が通る。古川市成立以前の志田郡は現在の古川市の南半部を含み、東は遠田とおだ郡、南は宮城郡・黒川郡、西は加美郡、北は玉造たまつくり郡・栗原郡に接し、L字形に折れた形をしていた。現在の志田郡はほぼ折れ目が境界線になって北半分が古川市になっている。

「続日本紀」延暦八年(七八九)八月三〇日条に「志田」とある。「和名抄」によれば、酒水さかみず郷・志太しだ(東急本は信太)余戸あまるべ(高山寺本なし)があった。

〔原始〕

現在旧石器時代遺跡は発見されていない。縄文時代遺跡は大松沢丘陵周辺に早期から各時期の遺跡が発見され、吉田川流域に面した丘陵上にシジミを中心にカキを多少含んだ縄文中期の鹿島台町石竹いしたけ貝塚がある。環状貝塚で、吉田川の遊水池を生活の場とし、黒川郡大郷おおさと町の大松沢貝殻塚かいがらづか貝塚とともに海進、海退および自然環境の変遷を物語る。また松山町宇和野うわの遺跡は一部淡水産貝塚を伴って晩期の鹿角製装身具を出土し注目される。弥生時代遺跡も同じく大松沢丘陵沿いに分布するが数が少ない。三本木町で石包丁の発見があるという。古墳も高塚古墳は少ない。しかし横穴古墳群は三つの地区に集中し、六世紀末か七世紀から営まれ、平安時代まで継続する。三地区に分れて在地勢力者が成長し、律令支配の浸透とともに支配組織に組入れられていったと思われる。鹿島台大迫おおばさま横穴古墳群は、玄門から玄室の壁面に白と赤の斑点状の彩色がなされた装飾古墳である。三本木町の鳴瀬川南岸沿い丘陵に青山あおやま混内山こんないざん坂本さかもとなどの横穴群が点在し、国指定史跡の山畑やまはた装飾横穴古墳群がある。山畑横穴群では大迫横穴一八号墳と同じように、三基の横穴玄室の周壁と天井に朱描線が施され、その部分に円文と珠文が描かれている。死後の世界を考えての厚葬思想を反映し、しかも横穴古墳文化の絶頂期に造営され、権勢を示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報