法泉寺(読み)ほうせんじ

日本歴史地名大系 「法泉寺」の解説

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]甲府市和田町

法泉寺山の南東麓にある。金剛福聚山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来武田信武が月舟周勲に帰依して創建した。山号は境内の巨岩金剛不動岩に由来すると伝えられる。「甲斐国志」によれば造営は元徳―元弘(一三二九―三四)頃で、月舟は師の夢窓疎石を招聘開山とし、自らを二世とした。延文四年(一三五九)の信武の死後はその菩提寺となった。その後は不明だが、武田信玄により甲府五山の一つに定められて外護を受け、快岳周悦が住持に迎えられたという(寺記)。永禄九年(一五六六)一二月一四日の武田家印判状(法泉寺文書)では、法泉寺塔頭四院の一つ薦福軒に対し、中楯善左衛門尉後家寄進の良昌庵について地主が交替しても変わらず末寺とすることを承認している。元亀四年(一五七三)九月五日には武田勝頼の家督相続にあたり千塚ちづか郷内の光蔵こうぞう寺領が信玄の先年の約束どおり向陽軒に安堵された(「武田勝頼判物」同文書)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]井原市西江原町 長谷

西江原にしえばら町の北東、谷間にある。長谷山と号し曹洞宗、本尊は聖観音。寺蔵の由緒書上によると永享二年(一四三〇)高越山たかこしやま城主伊勢行長(のち盛定)が開基、大檀那となり、丹波玉雲ぎよくうん(現京都府船井郡丹波町)開山太容梵清の高弟古澗仁泉を招じて開祖とし、伽藍を造営したのが草創と伝える。永享末年頃、備中守護細川氏久は被官万代二郎左衛門尉が小菅こすげ城主那須資英より買得した畠四段の寄進を認め(年未詳五月一四日「細川氏久書下」寺蔵)、嘉吉三年(一四四三)には伊勢盛経が下地五段を寄進して細川氏久の祈願所としている(同年五月一二日「盛経寄進状」寺蔵)

細川氏と当寺の関係は、大檀那である当地の伊勢氏が、室町幕府の政所執事伊勢氏の出であったことによるものであろう。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]高松市番町一丁目

ばん町一丁目の北西隅にある。龍松山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。生駒家廟所で生駒一正(玉竜院殿)・正俊(法泉院殿)父子の五輪塔二基がある。寺号は正俊の諡名法泉院により、山号は幹回り三抱余、南北一〇間余・東西七間余に枝を張った大松があったことによる(讃岐国名勝図会)。元徳二年(一三三〇)鋳造の銅鐘(県指定文化財)がある。その他生駒家代々の画像、寺領証文などがあった(同書)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]米沢市城西二丁目

恵日山と号し、本尊は釈迦如来。もとは禅林ぜんりん寺と称した正法宗本山。元和四年(一六一八)藩主上杉景勝は重臣直江兼続の発起を受け、僧九山を開山にして白子しろこ明神の西隣に臨済宗禅林寺を創建、領内臨済宗寺院の総本山とした(直江伝稿)。同時に禅林文庫を設けて当寺を藩士の学問道場とし、九山を指導に当たらせた。景勝の嗣子定勝は九山に学んでいる。これはのち元御細工もとおさいく町に建てられた学館(興譲館)の前身。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]鳥取市立川町一丁目

立川たちかわ町一丁目の北角の広徳こうとく寺向いにある。富中山と号し、顕本法華宗。本尊は釈迦如来。近世末の寺域は一千一二四坪、末寺一ヵ寺があった(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。開基は日渡。寺伝によれば池田輝政の厚遇を得た日渡は慶長九年(一六〇四)播磨姫路に妙善みようぜん寺を創建、輝政没後は池田忠継に従って備前岡山に移り宝仙ほうせん寺を建立した。さらに寛永九年(一六三二)池田光仲の国替に従って鳥取に移り、法泉寺を建立したという。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]油木町油木 福本

もと西油木当川内にしゆきとうがあち谷にあったが、昭和三四年(一九五九)現在地に移転。山号桑枝山、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば長元元年(一〇二八)洞徳の開基、天台宗で谷茅山松雲しよううん寺と号したが、安貞元年(一二二七)親鸞の法弟明光巡錫の時真宗に改宗、寺号も改めた。明光の弟子、常陸の住人水戸四郎(法名勇慶)を再開基とする。勇慶は関東三浦氏の出といい、承久の乱後西国に下り出家したと伝える。

近世の法泉寺の信徒は西油木だけでなく新免しんめん小野おの永野ながの草木くさぎ(現神石町)、さらに国境を越えて備中にも分布していた。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]多気町相可

山号は天照山。本尊釈迦三尊像。開基は啓。黄檗宗の寺として続いたが昭和五一年(一九七六)宗教法人を解消。啓は万治二年(一六五九)相可おうかに来住し、元禄八年(一六九五)五月一五日卒去。義堂の著した「続扶桑隠逸伝」に

<資料は省略されています>

とみえ、特異な禅僧の風貌を伝えている。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]和気町益原

日蓮宗不受不施派に属し、山号は大樹山。本尊は宗祖尊定十界常住の文字曼荼羅。もと岡山蓮昌れんじよう(現岡山市)末。「和気郡誌」によればもと禅宗であったというが、縁起には「神在寺・法泉寺と号禅律二宗なり」と記され、律宗の可能性が強い。また前掲郡誌に、元和五年(一六一九)不受不施派の祖日奥(もと京都妙覚寺住職)がこの地を訪れたとき、日蓮宗に改宗したと記されるが、縁起によると、天神山てんじんやま(現佐伯町)城主であった浦上宗景の時代にすでに日蓮宗になっており、宗景も当寺を菩提寺としたという。また元和の頃、日奥は当寺で説法したとある。

寛文六年(一六六六)池田光政の不受不施派弾圧により、寺中の本行坊は還俗し、善正坊は他国を行脚し行方不明となり、廃寺となった(「寛文年中古寺跡書上帳」池田家文庫)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]水沢市 寺小路

長光ちようこう寺の北方、やなぎ町の東裏にある。補陀洛山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。開山もその年月も不詳だが、もとは松島円福まつしまえんぷく(現宮城県宮城郡松島町瑞巌寺)の末で、延宝年間(一六七三―八一)から平泉中尊寺末となったという。火災に遭い久しく荒廃していたが、元禄(一六八八―一七〇四)の頃、住職西生の代に万日回向念仏修行をして寺の再興を図ったので万日まんにち寺とも称せられる。宝暦(一七五一―六四)初年地蔵坊浄雲が当寺の貫主のとき中尊寺の合力を受け、自らも托鉢して勧化し客殿を改築して中興の祖となった。当寺にはかつて信濃善光寺鋳造の金仏立像四八体の一が安置され、新善光寺とも称されて尊崇を受けていたといわれるが今はない。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]掛川市上西郷

倉真くらみ川の支流たき川の上流に位置する曹洞宗寺院。山号は曹渓山、本尊は釈迦如来。江戸後期は上西郷かみさいごう村善右衛門組(のち仙吉組)に所在した。永享一二年(一四四〇)舂屋宗能の開山という(寺籍財産明細帳)。文安三年(一四四六)即庵宗覚が法泉寺二世となった(日本洞上聯灯録)。享徳三年(一四五四)五月二七日、宗能が「伊勢天照大神」遷宮の棟札を記しているが(「棟札銘」法泉寺蔵)、同棟札は「掛川誌稿」にみえる法泉寺鎮主山王祠にかかわるものという。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]羽曳野市野々上三丁目

野中やちゆう寺の南方約二〇〇メートルにある。亀井山と号し、黄檗宗。本尊聖観音。もと宝泉寺とも記され真言宗であったが、元禄一三年(一七〇〇)頃黄檗宗に改め、寺名も現在のように改めたという。当寺はもと野中寺の奥院で、草創も野中寺との関係から古代にさかのぼると考えられるが、詳細は不明。平安時代には、南方の善正寺ぜんしようじ山にあった渡来系氏族葛井氏・船氏・津氏の墓地を管理していたともいう。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]土浦市大岩田

台地上にあって大木が茂る。聖天山無量寿院と号し、真言宗豊山派。本尊は蓑笠不動明王。寺伝によれば、正平年間(一三四六―七〇)頃、醍醐寺三宝院(現京都市伏見区)乗海の開山。初めは北の谷津を一つ越した字諏訪台すわだいにあったが、応永年間(一三九四―一四二八)に祐尊によって現在地に移された。小田おだ(現筑波郡筑波町)の四方を守護する小田領四ヵ寺の一つで、平安中期作の金銅割五鈷杵(県指定文化財)、室町時代作の薬師三尊像(県指定文化財)、黒檀製の多宝塔形舎利塔模型を有する。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]館林市西本町

市街北西部にあり、臨済宗、本尊釈迦如来。文明二年(一四七〇)足利義政の創建と伝えられ、開山は陽岩。初め随喜山と号したが、のち寺宝の金亀にちなみ瑞亀山と改めた。戦国期には衰退したが、慶長年中(一五九六―一六一五)榊原康政により再興され、康政を中興開基とする。寺宝の金亀はある大水害の時寺を抜け出して行方不明となり、寛文一一年(一六七一)近くの村の沼によく似た金色の亀があらわれたが、村の菩提寺に移すと石亀になっていたという。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]土浦市今泉

今泉いまいずみの西側、今泉城本丸跡にあり、急な石段の参道を登ると、椎・銀杏の大木が茂る。柴垣山観音院と号し、真言宗豊山派。本尊は十一面観音。「今泉法泉寺由来記」(久家重中氏蔵)によれば、鎌倉時代に香取・神明・愛宕あたご諏訪すわ柴垣しばがき八幡の五社が建てられ、五社明神に別当を置いたのが起源といい、初めは今泉の北の粟野あわのに建てられ、後に現在地に移ったという。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]田辺町草内 南垣内

草内くさうち集落の南端にあり、往時は周辺一帯に広大な寺地を有したという。中島山と号し、真言宗智山派。本尊十一面観音立像は草むらから出現したといわれ、天長年間(八二四―八三四)の干天の際この本尊に祈願したところ清泉が湧き出たので、法泉寺と号したという。絵師巨勢金岡が来訪、止宿したとも伝える。鎌倉時代には奈良西大寺の叡尊(興正菩薩)が当寺に放生池をつくり、十三重石塔を建立したといわれる。現在池は埋立てられてないが、石塔は境内南東隅にあり、弘安元年(一二七八)建立の刻銘がある(国指定重要文化財)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]三戸町川守田 横道

六日むいか町の西北裏、旧国道四号の北に位置する。北は丘陵山地である。梅嶺山と号し、臨済宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「法泉寺 梅嶺山済家宗、聖寿寺末寺、兵六郎公墓所、門柱御古城之柱也云」とある。元和元年(一六一五)二代藩主南部利直の長子兵六郎経直の菩提を弔うために開創されたと伝える。開山は梅岳。宝暦年中(一七五一―六四)の火災により由来不詳ともされる(新撰陸奥国誌)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]宇部市大字棯小野

上棯小野かみうつぎおのにある。浄土真宗本願寺派で竜岩山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、明応年中(一四九二―一五〇一)大内義興が臨済宗の円悟碩渓をたのんで山口のたきにあった法泉寺を父政弘の菩提所としたという。しかし大内氏の滅亡によって天文二〇年(一五五一)時の住職が棯小野の竜岩りゆうがん山の南西に小庵をつくり移転した。

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]宇土市神馬町

もと大慈だいじ(現熊本市)末寺で曹洞宗。山号曹源山、本尊は釈迦牟尼仏。永仁元年(一二九三)宇土郡主菊池弾正大弼隆年が、宇土郡宮荘轟みやのしようとどろき山に創建し、寒巌義尹の高弟、大慈寺五世仁叟浄熙を招いて開山とした。寺号・山号ともに轟泉ごうせんにちなんで名付けられた。その後、菊池・伯耆(名和)氏の崇敬を受け、戦国時代末期に衰微したが、加藤・細川歴代藩主は、寺領一石三斗余を寄進し、正保四年(一六四七)現在地に移転した(国誌)

法泉寺
ほうせんじ

[現在地名]長野市松代町西条

曹洞宗正眼山法泉寺。本尊釈迦如来。佐久郡前山村(現佐久市前山)貞祥寺末。

寺伝では永禄七年(一五六四)清野刑部左衛門尉の開基といわれ、その位牌を安置する。初め豊泉寺という。元亀三年(一五七二)の貞祥寺開山歴代伝文によれば、(法)泉寺住持全林(施室)が同寺を退き、佐久郡貞祥寺へ帰院し、徳応が豊泉寺住職となったとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「法泉寺」の解説

法泉寺

(神奈川県鎌倉市)
鎌倉十刹」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報