鳥取城下(読み)とつとりじようか

日本歴史地名大系 「鳥取城下」の解説

鳥取城下
とつとりじようか

久松きゆうしよう山南西麓にあり、南西方をふくろ(旧袋川)が北西へ流れる。鳥取城の南側・西側に形成された城下町で、因幡・伯耆両国の政治・経済・交通の中心を占める。郷帳類では鳥取町とみえる。

〔形成〕

鳥取城の築城は天文年間(一五三二―五五)と伝えられるが、城下形成の時期は不明。天正八年(一五八〇)羽柴秀吉軍の第一次鳥取城攻撃の際、山下にあった町家・市場などが羽柴軍に焼払われており(六月一九日「羽柴秀吉書状」利生護国寺文書)、この頃には町家が形づくられていたことがわかる。同年までの山名豊国在城時の鳥取城は、久松山西麓のまつの丸を中心としていたと伝えるので、初期の鳥取城下は松の丸の山下に形成されたのであろう。

近世鳥取城下町の形成は、天正九年から慶長五年(一六〇〇)までの宮部氏(五万石余)在城時期、慶長五年から元和三年(一六一七)までの池田長吉(六万石)在城時期、元和三年から寛永九年(一六三二)までの池田光政(三二万石)領治時期をそれぞれ画期として進行した。宮部氏の鳥取城居館は松の丸の下、藩政期のやなぎ地蔵の地(のち御城代屋敷、現鳥取県立博物館敷地)にあった。この居館のある山下さんげの丸は堀に囲まれ、ここから久松山麓から西へ袋川(古い袋川筋、「太閤記」の記す湊川)に向かって二本の外堀が掘られていた。南側の外堀は城域南方を限る鳥取堀から後代の百軒長屋ひやつけんながや筋を通り袋川につながっていた(百軒長屋筋の部分の堀はのちに埋められた)。北側の外堀は、のちの「湯所山手口惣門の構より柳倉の内堀まで」であり、藩政期にもそのまま残った(鳥府志)。この二本の外堀と袋川に囲まれた内側が宮部氏時代の城下町となる。山下の丸から西方袋川へ向かって大手口からなか丁、その北におなぎ(鰻)町、南に与次右衛門よじえもん(与二右衛門町)の三筋が通じていた。中丁はのちの柳蔵前へと通じており、「鳥府志」には「この三条の肆街は今の若桜海道・知頭海道・鹿野海道に准ず」と記される。

慶長七年から池田長吉により城郭の大改修、それに伴う内堀の延長、外堀の開削が行われた。松の丸の方角に偏っていた宮部氏時代の山下の丸は南東方向へと拡張、移動され、新たに二の丸・三の丸・天球てんきゆう丸が築造された。この城郭構造は藩政期以後ほぼそのまま受継がれていった。城郭拠点の移動に伴い新たに南東に延長された内堀内側に中の御門を置き、ここから擬宝珠ぎぼし橋を越え智頭口ちずぐち惣門に至る道筋を大手の通りと改めた。長吉の城下拡張の最大事業は、南東・南西部二ヵ所の外堀開削による柳堤築造で、「鳥府志」には「此度外構の縄は、水道谷を打逾、天王の尾崎よりやなぎぐらの後まで掛つゞけて総構とし、是を柳堤と号す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報