水沢城下(読み)みずさわじようか

日本歴史地名大系 「水沢城下」の解説

水沢城下
みずさわじようか

[現在地名]水沢市 南町みなみまち上町うわまち表小路おもてこうじ大畑小路おおばたけこうじ川原小路かわらこうじ搦手丁からめてちよう勝手町かつてちよう吉小路きちこうじ虚空蔵小路こくぞうこうじ新小路しんこうじ田小路たこうじ寺小路てらこうじ日高小路ひたかこうじ宮下町みやしたちよう袋町ふくろまち大町おおまち川口町かわぐちまち立町たつまち柳町やなぎまち横町よこまち東町あずまちよう不断町ふだんちようなど

北上川右岸に位置する水沢城(江戸時代の正式呼称は水沢要害)城下町塩竈しおがま村内ではあるが、家中屋敷地(小路・丁)町人町六町(水沢六町といい、家中小路に対しした町とも通称)は「塩竈村之内村扱ニ無之分」(水沢町方等安永風土記)として行政上別扱いになっており、寛永六年(一六二九)以後は城主である仙台藩主伊達氏一門水沢伊達氏(本姓留守氏)の支配下にあった。家中小路はおもに城内にあり一部が城外に点在、町人町は城の東側の奥州街道沿いに連なっていた。水沢の町は心字の町といわれる。まず南の水沢六町のうち袋町の点から始まり、横町・大町を基底とし、柳町・立町に発展して城を中心に抱え、城内の二〇丁余の家中屋敷を囲み、最北の川口町で締めくくる丁字路の多い心字の方形をなしている。そして南には七軒しちけん小路、北には不断丁をおいて奥州街道の南北の出入口を制した。城下からの道はこのほか仙北せんぼく街道・さかり街道があり、江刺郡黒石くろいし町方面への道(通称東山街道)もある。

〔城下町の発展〕

城下町形成の時期は不明だが、戦国期以前から水沢城があったことは確実で、城下町も相当古い歴史を有すると推定される。慶長一〇年(一六〇五)一〇月八日の伊達政宗黒印状(伊達政宗卿伝記史料)に「水沢之町引候而金ケ崎江相立候」とあり、続けて前々のごとく月に「六さい諸商人以下」を相立てるべしと記している。これによれば同年以前から水沢町に六斎市が立っていたことは明らかで、それを町とともに金ヶ崎かねがさき(現胆沢郡金ヶ崎町)へ移すよう命じている。これは水沢城主白石宗直が同九年一二月水沢から寺池てらいけ(現宮城県登米郡登米町)へ移り、後任に柴田宗朝が入るのだが、宗朝の水沢着任が遅れたために取られた措置であったとみられる。水沢の市日は五・一〇で、近代まで続いた(水沢市史)。奥州街道の宿駅制度が整備されると、水沢町は宿駅の機能ももつようになり、寛永三年の塩移送に関する記録(石母田文書)に、水沢六町の一である横町に検断がいたことが記されている。寛永六年留守宗利(水沢伊達氏初代)が入城。「留守家系図及び略事歴」(水沢市立図書館蔵)の宗利の項に、同九年のこととして日高神社の拝殿を改造し、次いで城下の街衢整理に努め、二〇丁余に分画して居宅を定めるとあり、家中小路と下町を定めたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報