上西郷村(読み)かみさいごうむら

日本歴史地名大系 「上西郷村」の解説

上西郷村
かみさいごうむら

[現在地名]掛川市上西郷

倉真くらみ(西郷川)の中流域、およびその支流の流域にあり、西は五明ごみよう村・上垂木かみたるき村、南は水垂みつたり村・北西郷村。中世は上西郷庄・西郷上村とみえる。村域は広く、「掛川誌稿」によると西郷川の西に西谷田にしやだ小市こいち中原なかはら、東に鹿島かしまほうはし(方の橋)柳原やなぎはら中村なかむら中島なかじまかまい(構江)川久保かわくぼがあり、東の山際を戸塚とつか八幡やわた下山しもやま御堂みどう宮脇みやわき石畑いしばたけ、川の北を蛇食じやばみまえたき、次をセケ(美人ヶ谷)石谷いしがや(石ヶ谷)、五明村境を平塚ひらつか、その南を北袋きたぶくろといい、これらの地名の下に村を付けてよんだという。

文永二年(一二六五)二月七日、遠江国三代起請地并三社領注文(写、教王護国寺文書)が作成され、三代起請地のうちに「運迎院」の「上西郷」がみえる。現磐田市の慈恩じおん寺が所蔵する雲版には応永二六年(一四一九)八月二七日の年紀銘があり、「遠江国上西郷庄滝泉禅寺長板」と刻されている。なお建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に後白河院領の「遠江国西郷上村」がみえるが、前述の運迎院領上西郷との関係は不明。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一千九二八石余。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。

上西郷村
かみさいごうむら

[現在地名]岐阜市上西郷

方県郡の北西端にあたり、南北に長い西郷地区の北部に位置。北は本巣郡文殊もんじゆ(現本巣町)、西は船木ふなき(一一六・五メートル)から南東に延びる稜線を境に本巣郡上之保かみのほ(現糸貫町)、南はもと支郷の中西郷村。慶長郷帳に上西郷村とみえ、高二千四九六石余。正保郷帳では田一千九六五石余・畑五三〇石余・山年貢一石。

上西郷村
かみにしのごうむら

[現在地名]嘉穂町上西郷かみさいごう

遠賀おんが川を挟んで貞月さだつき村の南に位置する。集落は本村久吉ひさよしに二五、中村なかむら(元禄頃には弥石といった)一四、太郎丸たろうまる四、ほかに享和年間(一八〇一―〇四)までは沖之二ノ坪に人家があった(「郷村鑑帳」秋月郷土館蔵)。北西の西郷にしのごう(現碓井町)の枝村であったが(続風土記)、寛永六年(一六二九)分村(「掌中秘記」秋月郷土館蔵)。西郷村は初め福岡藩領、元和九年(一六二三)秋月藩領となり(同年知行高目録「長興公御代始記」県史資料二)、幕末まで続いたが、当村の領主の変遷も同様と考えられる(別本「続風土記附録」・旧高旧領取調帳など)

上西郷村
かみさいごうむら

[現在地名]福間町上西郷

下西郷村の東、西郷川の中流域に位置し、同川が村内を西流する。南部は丘陵地で糟屋かすや筵内むしろうち(現古賀市)との境界。枝村は同川右岸に鞍掛くらかけ村、当村南東部に大森おおもり村がある(続風土記)。下西郷村とともに中世西郷の遺称地。小早川時代の指出前之帳では糟屋郡西郷ノ本村の田六六町一反余(分米一千一二六石余)・畠四五町七反余(分大豆二六六石余)。慶長九年(一六〇四)の宗像郡西郷上村の検地高二千一〇四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には上西郷村の高二千一二一石余、人数六二〇(田圃志)

上西郷村
かみにしごうむら

[現在地名]いわき市常磐じようばん西郷町にしごうまち

藤原ふじわら川南岸にあり、東は下西郷村、北は下湯長谷しもゆながや村、南は長孫おさまご村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、宝永三年(一七〇六)以降湯長谷藩領。もと西郷村のうちで、寛永一五年頃までに上・下に分村したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android