江上村(読み)えがみむら

日本歴史地名大系 「江上村」の解説

江上村
えがみむら

城島町の南東部、江上・江上上・江上本えがみほんに比定される中世の村。三潴庄西さい郷の内。戦国期に肥前国勢福寺せいふくじ(現佐賀県神埼町)に盤踞した大宰府府官大蔵氏の支族江上氏は当地を名字の地とする。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)によると、江上には新定額最勝講十口料田一〇町のうち、背振せふり山心融房阿闍梨教弁が知行する料田一町と、玉垂たまたれ(現久留米市)の定法房永秀が知行する理趣分料田一町、高良こうら山義円房慶琳が知行する観音経料田一町があった。年月日未詳の三潴庄地頭名主交名注文(東寺百合文書/鎌倉遺文二七)によると、江上村は三潴庄の法常住院分の六ヵ村の一つで米生九郎二郎種守が地頭を勤めた。

江上村
えがみむら

[現在地名]佐世保市江上町

早岐はいき瀬戸を挟んでみやノ村の西に位置する。南におお島・よこ島などがあり、江上浦の西方針尾はりお村がある。北部にうしノ岳がそびえ、その西は牛ノ浦、北は安久あくノ浦。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に針尾兵衛太郎入道覚実の所領としてみえる「江上・小鯛・鈴田」の江上は当地と考えられる。江戸時代は平戸藩領相神浦筋郡代の管轄下で、正保国絵図に江上村とあり、高一八八石余。

江上村
えがみむら

[現在地名]上市町江上

江又えまた村の北、上市川扇状地の中央部に位置し、東は中江上村、西は中青出なかあおいで村、北は弥市新やいちしん村。永禄元年(一五五八)五月二五日、新川郡守護代椎名氏の重臣である小間常光は極性ごくしよう(現富山市)に「上条之内於青出弐拾俵、并又於江上拾俵」の田地を寄進している(「常光寄進状」極性寺文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高八八六石、免三ツ七歩(三箇国高物成帳)。宝暦年間(一七五一―六四)の家数三六(「高免家数書上」松岡家文書)

江上村
えがみむら

[現在地名]中条町東本ひがしほん町・本郷ほんごう

北は本郷村、東は館腰たてのこし村・中条町に接し、本郷村内に飛地二ヵ所がある。元禄郷帳に中条町枝郷として村名がみえる。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領。天保九年(一八三八)巡見使案内帳(大沼安在氏蔵)によれば本田一八町六反九畝余・本畑四町九反五畝余・新田一町六反一畝余・新畑九反五畝余、家数三一・人数一一一・馬二。

江上村
えがみむら

[現在地名]福井市江上町

九頭竜くずりゆう川下流域の左岸、劔大谷つるぎおおたに村の東にある。村名は正保郷帳にみえ、田方四〇六石余・畠方四五四石余。正保二年(一六四五)福井藩領から吉江藩領、延宝二年(一六七四)再び福井藩領となった。「越前地理指南」によれば劔大明神社があり、九頭竜川の対岸二日市ふつかいち村との間に舟渡しがあった。

江上村
えがみむら

[現在地名]佐賀市北川副町きたかわそえまち大字江上

佐賀江に沿って佐賀城下蓮池はすのいけを結ぶ蓮池往還の途中にあって街村をなす江上町村と、その南の堀に囲まれた集村の部分とがあり、もともとはこの集村の部分から発達したものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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