佐賀城下(読み)さがじようか

日本歴史地名大系 「佐賀城下」の解説

佐賀城下
さがじようか

現在の行政区画でいえば、城内じようないとよばれる旧城郭内、与賀よか町・赤松あかまつ町・鬼丸おにまる町・中の館なかのたて町とよばれる周辺部、および中の小路なかのこうじ松原まつばら一―四丁目・八幡小路はちまんこうじみず一―六丁目などの武家屋敷、そして成章せいしよう町・紺屋こうや町・唐人とうじん一―二丁目・中央本ちゆうおうほん町・やなぎ町・高木たかき町・材木ざいもく町・東佐賀ひがしさが町・白山しらやま一―二丁目・六座ろくざ町・呉服元ごふくもと町・伊勢いせ町・長瀬ながせ町などの町人町がその範囲である。

低平な平野の中に慶長七年(一六〇二)から同一六年にかけて佐賀城が築造された。村中むらなか(竜造寺城)とよばれていた城の地を中心に大規模な築城が、すでに藩政の実権を握っていた鍋島直茂、そして子の勝茂によって行われたのである。

城は平城で本丸の西北に五層の天守閣が設けられ、本丸・二の丸・三の丸の城郭を囲んで大きな内堀がめぐらされている。北に東西三五〇間(現県庁北)・幅四〇間、南に東西四三五間・幅三九―五一間、東に南北三八九間・幅三二―三六間、西に南北三九八間・幅三九―四〇間、この堀の深さが七―九尺である。さらに侍屋敷・町屋敷を含んでの城下全体を囲んで東方に南北五九〇間、北方に東西二千一七〇間、西に南北二五〇間の土手があり、これが外曲輪で、その内側に水路が走っていて外堀である。実際はこの外曲輪をはみ出して武家屋敷や町人町が存在するわけで、佐賀藩三五万七千石に相応した規模の大きい城下町である。

佐賀城は本丸の北と西にだけしか石垣はなく土手だけがめぐらされていた(寛永四年の隠密探索書)。土手の上に高い木を植えなければ中がのぞかれるという状況で、松などが植えられていた。また内堀も石垣がなくて崩れていたが、これを石垣で修復したのは寛政年間(一七八九―一八〇一)である(南堀端石垣記年銘)

城郭内には藩主の一族や重臣たちの屋敷があるが、城下の町割については、慶長一三年の佐賀城総普請に際して「此時、御家中屋敷町小路立つ、奉行鍋島市佑」(勝茂公譜考補)とあり、この際に町割が行われた。「佐賀市史」は、承応三年(一六五四)の佐賀城廻之絵図をもとに、「城内、および北堀端の松原町、その北の中小路・八幡小路、その西の堀川町(妙安寺小路)、城東の水ヶ江一帯、西堀端の与賀町・赤松町(竜泰寺小路)南堀端の中館町・鬼丸町・与賀町、その北西にあたる川原町(川原小路)、その西の西田代一丁目(正丹小路)、西田代二丁目(本行寺小路)、水ヶ江東部の朝日町(鷹匠小路)今宿町(今宿裏小路)、その北の田代一丁目・二丁目、その北の高木町の北部(高木町裏小路)が武家屋敷である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報