肥前国(読み)ヒゼンノクニ

デジタル大辞泉 「肥前国」の意味・読み・例文・類語

ひぜん‐の‐くに【肥前国】

肥前

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日本歴史地名大系 「肥前国」の解説

肥前国
ひぜんのくに

九州の北西部を占め、西に接する平戸島およびさらに西方に連なる五島列島などの島々を含む。南は肥後国、東は筑前国と接する。ただし現長崎県域は肥前国のうち南西部の高来たかく郡・彼杵そのき郡と、その北の松浦まつら(その西部)を範囲とする。

肥前国の西部は半島や岬が張出し、島々が浮び、陸地の先に海があるというよりも、浦と津を往来する人々にとって海の奥に陸地があった。

古代

〔多様な文化と交流〕

歴史時代以前の県域を考古所見で概観すれば、漁業面ではのちの松浦まつら郡域で漁労を主体としたと考えられる遺跡が注目され(佐世保市の下本山岩陰遺跡など)、鯨の骨や石銛・石匙・削器・石鏃などの大型刺突具・大型刃物が出ている(田平町のつぐめのはな遺跡、宇久町の宮ノ首貝塚など)。船を用いた捕鯨があったかどうかつまびらかではないが、縄文時代より大型魚類や海棲動物などの捕獲および解体が行われていたと推定される。また鯨の肋骨を加工した鮑起しと推定される篦状道具や、鮫歯を用いて加工した牙鏃などがみられ(福江市の白浜貝塚)、鯨の脊椎骨を用いて製作した骨器が出ており(小値賀町の野首遺跡)、漁労文化の一端がうかがえる。米作では縄文時代晩期より北松浦きたまつうら郡域でも(田平町の里田原遺跡)西彼杵にしそのぎ郡域でも(大村市の黒丸遺跡)、関連の遺物が発見されたが、多数の貯蔵穴や打製石鍬などから畑作が主体であったとも推定される。

島原半島では一〇〇基余の甕棺と青銅鏡が検出されたという島原市の景華園けいかえん遺跡や、南有馬みなみありま町の北岡金比羅きたおかこんぴら遺跡などの拠点的集落とは別に、弥生時代中期には口之津くちのつ町の三軒屋さんげんや貝塚、加津佐かづさ町の内野うちの貝塚などの海辺集落があり、また一方で布津ふつ町の布津木場原ふつこばばる遺跡や国見くにみ町の百花台ひやつかだい遺跡など山麓部の生活を伝える遺跡もみられる。朝鮮半島の影響は縄文時代からみられるが、朝鮮半島南部の無文土器の影響が強い小型壺形土器が支石墓で発見されたり(宇久町の宇久松原遺跡)、ソウル市の岩寺洞遺跡の櫛文土器と似た砲弾形の深鉢形土器が出土したり(福江市の大板部洞穴)、朝鮮半島系の松菊里型竪穴住居跡がみられるなど(佐世保市の四反田遺跡、平戸島の馬込遺跡)、各地にわたる。他方では南海産の貝輪・垂飾品などが出土(宇久松原遺跡)、南九州の文化を受容していたこととともに、近海産貝輪を身につけた者との格差がうかがえるなど(佐世保市の宮の本遺跡)、興味深い。

「三国志」魏書東夷伝倭人条(以下「魏志倭人伝」)に、邪馬台国に向かう里程を記すなかで一支国(壱岐国)より「一海を渡ること千余里、末盧国に至る」とあり、南東に陸行すること五〇〇里で伊都いと国に至るという。

肥前国
ひぜんのくに

古代

〔起源と国名〕

「肥前風土記」に「肥前国者 本与肥後国 合為一国」とあり、肥前国はもと肥後国と併せて一国であったのを、のち二国にしたという。そのもとの国は「火の国」と称したが、この称呼のいわれについて、同じく「肥前風土記」は次の二つの伝えを記している。

<資料は省略されています>

また、

<資料は省略されています>

前者によれば、崇神天皇の時代に、健緒組という者が勅命によって肥後国益城ましき朝来名峰あさくなのみねの土蜘蛛を平らげ、国のうちを巡視して八代やつしろ白髪しらかみ山に至って宿泊したところ、その夜、大空に燃える火があり、しだいに下って白髪山に降りて燃えつづけた。健緒組からことの由を聞いた天皇はその火の下った国を「火の国」と命名し、健緒組に火の君の姓を与えた、というのである。

また後者は、景行天皇が熊襲を征討して筑紫を巡狩し、葦北の火流浦あしきたのひなぐのうらから船で火国に行こうとした時、日が暮れて真っ暗になり、船の行く先もわからなくなったところ、突然向うに燃える火が見え、陸地に着くことができた。天皇が「あの火の燃えたのは何という所か、また火を燃したのは誰か」と聞いたところ、土地の者は「ここは火国八代郡の火邑ですが、火を燃した者は誰か存じません」と答えた。天皇は群臣に向かって「この火は人の燃した火ではあるまい。この国を火の国という理由がわかった」といった、というのである。

すなわち前者は火国と称するようになったいわれを述べたものであり、後者は前者とは別の事象によって火の国であることを再確認したともいうべき伝承である。

ところで、この後者の伝えについては「日本書紀」景行天皇一二年一二月の条にほとんど同内容の記事があるが、ただ文末に「亦尋其火也、然不主、人火、故名其国火国」とあって、火の国の再確認ではなく、このことによって火の国と名付けたといっている。つまり火の国の名の起源については「肥前風土記」と「日本書紀」と二つの伝承があるが、ともに「火」にかかわる称呼であり、したがって「火の国」と表記されている。なお「日本書紀」景行天皇四年二月甲子の条に「弟豊戸別皇子、是火国別之始祖也」、同一二年一二月丁酉に「仍以弟市鹿文、賜於火国造」、継体天皇二一年六月甲午に「於是、磐井掩拠火豊二国」、安閑天皇二年五月甲寅に「火国春日部屯倉」、敏達天皇一二年七月朔に「火葦北国造阿利斯登」など火、あるいは火国の記載がある。

ところで「肥前風土記」は、肥前国はもと肥後国と併せて一つの国であったといい、虚空に燃える火が八代郡白髪山に下って燃えつづけたためこの国を火の国と名付け、のち二つの国に分けたと述べ、風土記に説くいま一つの伝承も「日本書紀」景行紀にある記事とともに、八代郡下における火の現象が火の国の名称の発祥であることを伝えている。

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改訂新版 世界大百科事典 「肥前国」の意味・わかりやすい解説

肥前国 (ひぜんのくに)

旧国名。肥州。現在のほぼ佐賀県,長崎県に当たる。

西海道に属する上国(《延喜式》)。古代の〈火の国〉の一部で696年(持統10)ころまでに,肥前国と肥後国とに分立されたらしい。《肥前国風土記》に,〈肥前ノ国ハ,本,肥後ノ国ト合セテ一ツノ国ナリ〉とある。有明海を介して肥後国と結ばれていたこと,また火君の勢力が広く肥前国にまで及んでいたことから,〈火の国〉と総称されることになったものだろう。《魏志倭人伝》の末盧国(まつろこく)以来,海上交通の要衝を占め,大陸文化を早くから導入していたことは,支石墓群の分布などからうかがえよう。《国造本紀》は末羅,葛津直(立),杵肆,筑志米多の4国造の名をかかげるが,それらの地は律令時代の松浦(まつら)郡,藤津(ふじつ)郡,基肆(肄)(きい)郡,三根(みね)郡米多郷に擬定されている。また佐嘉県,高来県,松浦県,嶺県などの県(あがた)が見られるが,これはおそらく5世紀代には,一応大和政権に服属したあかしであろう。

 律令時代には,肥前国は11郡,70郷,187里で,駅18,小路・烽(とぶひ)20所があり,下国で,城1,寺2と《肥前国風土記》に記されている。これは天平年間(729-749)ころのものと考えられる。《延喜式》では,基肄,養父(やぶ),三根,神埼(かんざき),佐嘉(さが),小城(おぎ),松浦,杵島(きしま),藤津,彼杵(そのき),高来(たかく)の11郡である。郷名では《風土記》に見える養父郡の曰理(わたり)郷,三根郡の漢部(あやべ)郷,神埼郡の船帆郷,松浦郡の賀周郷,大屋郷,藤津郡の託羅郷,彼杵郡の浮穴郷,周賀郷などが《和名抄》には見られない。876年(貞観18)に松浦郡の庇羅(ひら),値嘉の2郷を上近,下近の2郷とし,値嘉島として島司郡領を置くとあるが(《三代実録》),《延喜式》《和名抄》にはすでにこの名は見られない。城1所は,基肄城を指すが,白村江(はくそんこう)の大敗の後,百済の遺臣らに大野城とともに築造させたものである。国府は佐嘉郡に置かれたが,《和名抄》には小城郡に国府を記す。肥前国は《風土記》では下国だが,《延喜式》では〈上国〉とされ,正税,公廨各20万束,雑稲29万余束である。駅馬は基肆10疋,切山,佐嘉,高来,磐氷,大村,賀周,逢鹿,登望,杵嶋,塩田,新分,船越,山田,野鳥に各5疋ずつが,また肥前国の起点となる基肄には伝馬5疋が配された。軍団は3で2500人置かれ,烽20所があり,軍事的に重視されていた。
執筆者:

1197年(建久8)7月の〈肥前国大田文〉には,田数1万4332丁とあり,1292年(正応5)8月16日河上宮造営用途支配惣田数注文には1万7918丁9反とある。その大半は権門勢家(けんもんせいか)の荘園となっており,基肄郡には小倉(おぐら)荘,神辺(こうのべ)荘,薗部荘,曾禰崎(そねさき)荘,姫方荘,養父郡には瓜生野(うりうの)保,義得(ぎとく)保,倉上荘,幸津(さきつ)荘,幸津新荘,鳥栖(とす)荘,奈良田荘,中津隈(なかつくま)荘,三野原荘,村田荘,養父荘,家嶋荘,三根郡には綾部荘,石井荘,下野荘,米多(めた)荘,矢俣(やまた)保,神崎郡には神崎荘,石動(いするぎ)荘,三津(みつ)荘,宮人(みやと)保,佐嘉郡には牛島荘,鹿瀬(かせ)荘,蠣久(かきひさ)荘,河副(かわそえ)荘(南・北),巨勢(こせ)荘,佐嘉荘,島崎荘,防所(ぼうしよ)保,西防所保,三重屋荘,米納津荘,安富荘,与賀(よが)荘,成道寺荘,小城郡には赤自荘,大楊(おおやなぎ)荘,砥川保,晴気(はるけ)荘,福所荘,藤織荘,松浦郡には相知(あいち)荘,生属(いきつき)牧,宇野御厨,大野荘,鏡荘,柏島牧,草野荘,島(のがきしま)牧,庇羅(ひら)牧,松浦荘,見留加志(みるかし)荘,御厨(みくりや)荘,杵島郡には大町荘,杵島荘,須古荘,太田(ただ)荘,墓崎荘,中津荘,長島荘,藤津郡には鹿島牧,能古見荘,藤津荘,塩田荘,彼杵郡には彼杵荘,高来郡には伊佐早荘,髪白(かみしろ)荘,千千岩(ちぢいわ)荘,早埼牧,大豆津別符,豆津別符,山田荘,串山荘,有馬荘,東郷荘,かや荘などがあり,このほか所在郡名不詳の荘園として,荒木田荘,進荘,香登荘,黒嶋荘,原田荘,南里荘などがある。なかでも皇室領神崎荘は3000町にも及ぶ肥前国最大の荘園であり,承久の乱(1221)後幕府に没収され,三浦泰村が地頭に補任されていたが,宝治合戦(1247)による三浦氏の滅亡後は,ふたたび皇室領として伝領されることになり,1272年(文永9)後嵯峨上皇より後深草上皇に譲られている。しかしモンゴル襲来(1274,1281)後恩賞地不足に苦しんだ幕府は,正応年間(1288-93)鎮西御家人に対してこれを恩賞地として配分している。このほか最勝光院領松浦荘,蓮華王院領長島荘,九条家領彼杵荘,平安時代は最勝寺領で後に得宗領となった河副荘などが注目されるが,南北朝内乱以後は在地武士などの侵略によっていずれも荘園としての機能を失っている。

鎌倉時代の肥前国守護は建久年間(1190-99)以後,武藤(少弐)氏が世襲していたが,モンゴル襲来後は北条氏一族が代わって補任され,鎮西探題設置後は鎮西探題が肥前国守護を兼任した。鎌倉幕府成立後,肥前国にも多くの鎌倉御家人が発生しているが,その大部分は名主(みようしゆ)層御家人であることから,東国有力御家人が惣地頭(そうじとう)に補任され,名主層御家人は小地頭(こじとう)と称されている。肥前国御家人は御家人役勤仕(ごんじ)の際には守護に率いられて勤仕しているが,1222年(貞応1),27年(安貞1),38年(暦仁1)に京都大番役を勤仕したことがわかる。しかしモンゴル襲来の危機が迫ると,御家人はモンゴル襲来に備えて異国警固番役に従事することになり,京都大番役は免除された。

 74年10月,対馬(つしま),壱岐(いき)を襲ったモンゴル軍は松浦地方沿岸にも来襲し,松浦党をはじめ肥前国住人はこれと戦ったと思われるが,その詳細は明らかではない。この松浦党は平安時代末より嵯峨源氏の子孫と称して武士化していたが,武装した水軍として知られ,しばしば朝鮮,中国沿岸を侵略したので,松浦地方は倭寇の根拠地と考えられていた。文永の役の博多湾沿岸の合戦にも肥前国御家人は参加し,恩賞地を与えられている。幕府は再度のモンゴル襲来に備え,3ヵ月交替で異国警固に当たることを定めたが,肥前国は豊前国とともに4,5,6月の夏の期間であった。さらに76年(建治2)各国の分担地を定めて,博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の構築を命じているが,肥前国の分担は筑前国姪浜(めいのはま)で,その石築地役,警固役の分担地域は現在の福岡市西区姪の浜から室見川川口の間と推定されている。現存する肥前国御家人の覆勘状によれば,勤仕期間は1ヵ月あるいは半月であった。81年(弘安4)6月ふたたびモンゴル軍は博多湾に襲来したが上陸に失敗し,再度博多湾に突入しようとしていた矢先に大暴風雨が吹きあれ,閏7月1日モンゴルの軍船は潰滅した。

1333年(元弘3)5月の鎌倉幕府の鎮西探題襲撃には肥前国武士も参加し,恩賞にあずかっている。36年(延元1・建武3)3月西下して来た足利尊氏は多々良浜の戦で菊池氏を破り,九州における主導権を確立したが,これを契機に肥前国の武士は続々と尊氏の下に馳せ参じ,南北朝時代を通じて大勢は足利方を支持していた。そのような中にあって,55年(正平10・文和4)九州探題一色範氏が九州より脱出し,征西将軍宮を中心に南朝勢力が九州全域を席巻するほどになった。しかし足利方は今川了俊を九州探題に任じ,弟の今川頼泰が71年(建徳2・応安4)11月松浦郡呼子(よぶこ)浦(現佐賀県唐津市,旧呼子町)に上陸するにおよび,ふたたび勢力を回復した。その一環として,各地に割拠する松浦党に一揆契諾を結ばせており,上下松浦郡の国人層は数回にわたって一揆契諾状を結んだ。だが南北朝動乱の終結により,この一揆契諾は解消している。

室町時代は大内氏の支援を受けた九州探題渋川氏と少弐氏の抗争の場となった。1497年(明応6)大内氏との戦に敗れた少弐氏は大宰府を追い出され,竜造寺氏の援助で肥前国を流浪しながら命運を保っていたが,1559年(永禄2)正月少弐冬尚が勢福寺城で敗死し,滅亡した。その後肥前国の実権は竜造寺氏に移ることになる。竜造寺氏は肥前国に進出してきた大友氏に対抗するため大内氏に接近し,さらに大内氏滅亡後は毛利氏と結び,肥前各地の土豪を征服し,戦国大名として急速に発展した。このほか後藤氏,波多氏,松浦氏大村氏有馬氏などの諸豪族が輩出したが,78年(天正6)ごろには竜造寺隆信によってほぼ肥前全域は平定された。ところが有馬氏を討つため島原半島に上陸した隆信は,島津・有馬連合軍との合戦で84年3月戦死した。竜造寺氏の勢力は衰退し,代わって鍋島氏,松浦氏,大村氏,有馬氏などが戦国大名として肥前国の覇を争うことになった。

1550年(天文19)6月ポルトガル船が平戸に入港したのを契機として,肥前国各地(主として現在の長崎県下)にヨーロッパ船が入港し,戦国大名との間で貿易を行い,鉄砲をはじめとする新兵器を提供した。またフランシスコ・ザビエルが50年8月平戸に立ち寄りキリスト教を布教したので,松浦,大村,有馬氏領内には多くのキリスト教信者が生まれた。とくに大村純忠有馬晴信などは洗礼を受けてキリシタン大名となったので,領内には教会をはじめコレジヨやセミナリヨなどの教育機関が設けられ,布教の中心地となった。はじめ平戸に入港していたポルトガル船は,松浦氏が布教に便宜を与えないことを理由に,大村領横瀬浦に入港するようになったが,63年大村氏家臣団の内紛で開港後わずか2年で貿易港としての機能を停止した。そして同じ大村領内の福田港,さらにその奥の長崎港に入港するようになり,長崎はその後貿易,布教の中心地として発展することになった。大村純忠は長崎を竜造寺氏に奪われることを防ぐためと,ポルトガル船の長崎入港を固定化する目的で,79年長崎と茂木(もぎ)をイエズス会の教会領として寄進した。また有馬晴信も84年浦上を同じく寄進した。長崎,茂木,浦上は88年豊臣秀吉によって没収されるまでの8年間,イエズス教会領として支配された。
執筆者:

肥前国の近世転換の画期をなしたのは,1587年豊臣秀吉の九州進攻である。秀吉は島津氏を平定したのち,同年6月に筑前筥崎(はこざき)で九州諸大名の配置を定めたが,肥前国内では竜造寺,深堀,五島,大村,有馬,波多,松浦などの諸氏には旧領を安堵した。しかし諫早(いさはや)の西郷純尭(すみたか)は帰順しなかったとして領地を没収し,竜造寺家晴に同地を与えた。16世紀末の文禄・慶長の役のおりに波多氏は改易になり,その領地は寺沢広高に宛行(あてが)われた。また1599年(慶長4)対馬の宗氏は薩摩出水郡に領していた1万石の替地として肥前国内の基肄一郡と養父半郡を領有するようになり(田代(たじろ)領),以後明治初年まで同地を統治した。竜造寺氏領ではしだいに実権を掌握した鍋島氏が実質的な統轄者になり,1607年には鍋島勝茂に統治権が認められて,名実ともに鍋島体制になった。佐賀藩の表高は35万7000石であった。唐津地域を領した寺沢氏は1601年肥後天草に4万石を加増されて12万石余となったが,37年(寛永14)の島原の乱により天草領が没収された。47年(正保4)に寺沢堅高が自殺したため同地は幕府領になったが,49年(慶安2)大久保氏が入領した。以後唐津藩は松平(大給(おぎゆう)),土井,水野,小笠原と譜代大名が交替統治した。

 彼杵(そのぎ)地方を領していた大村氏は純忠の子喜前(よしあき)が秀吉によって本領を安堵されたが,長崎は秀吉の直轄領になった。16世紀初めに五島列島を支配した宇久(うく)氏は純玄(すみはる)の代に秀吉より領地を安堵され,五島氏と改称した。大村氏,五島氏ともに明治初年までその領地を統治した。一方,島原半島では強盛になってきた有馬氏が晴信のとき,秀吉より旧領を認知された。1612年岡本大八事件で晴信は甲斐に配流され,子の直純に同地が与えられたが,14年に日向延岡に転封され,代わって16年(元和2)に大和五条から松倉重政が入領した。しかし37-38年の島原の乱の責任を問われて改易になり,38年に遠江浜松の高力忠房が配された。以後島原藩は高力,松平(深溝(ふこうず)),戸田,松平(再封)の譜代大名が同地を統治した。平戸では松浦党に由来する松浦氏が隆信のときに一族や諸豪族を服属させ,壱岐をも支配下においた。秀吉の国割のおりには,隆信・鎮信父子に領有権が認められ,以後平戸藩は明治初年まで松浦氏が統治した。このように肥前国では旧族居付大名から近世大名に進展した大名が多く,そのため藩制上でも多くの特色をもった。

肥前国は中国,朝鮮との交易や南蛮貿易の拠点をなしたが,16世紀末ごろからの貿易統制によって変化した。秀吉はイエズス会に寄進されていた長崎,茂木,浦上を直轄地とし,鍋島直茂を代官として統制を強めたが,1592年(文禄1)には長崎奉行を置き,寺沢広高を任用した。貿易には力を入れたので,長崎などは貿易港として栄えた。江戸幕府も最初貿易を重視していたが,鎖国政策をとるようになり,36年に長崎に出島を築き,41年にオランダ人を平戸から出島に移した。以後長崎は鎖国体制下で対外交易の拠点になった。

 1637年10月に勃発した島原の乱はキリシタン宗徒の一揆ともみられているように,政治的・宗教的に大きな影響をおよぼした。幕府軍の攻撃に対抗して原城にこもった総勢は3万8000人ともいわれ,島原・天草地域の住民が多数参加したが,翌年2月28日に原城が陥落し,城内の者はほとんど惨殺されたと伝えられている。この乱に佐賀藩が1万4000人を動員したように,肥前の諸藩も多くの軍兵を鎮圧のために駆り出した。島原の乱は鎖国体制とキリシタン統制を一段と強める要因になった。

 1732年(享保17)にはウンカの被害によって近畿以西,なかでも西海道地域は惨状を呈した。享保の飢饉は多くの餓死者を出したが,肥前国でも大きな被害が発生した。しかし藩側の対応で餓死者数が異なった。佐賀藩領では1731年の人口37万1956人(男22万0555人,女15万1401人)が34年には29万2110人(男16万5884人,女12万6226人)と約8万人(約20%)減少しており,多くの餓死者が出たことを物語る。32年に藩主鍋島宗茂は対策が不適切として幕府から逼塞(ひつそく)の処分を受けた。一方,対馬藩田代領では,32年の死亡者312人であり,1717年の田代領人口は1万2031人なので,飢饉の年の死亡者はそれほど多くない。田代領では富農富商による救済金の拠出とそれを基にした買米の実施,対馬からの運送などの対策がとられた。飢饉対策の差が餓死者の相違となってあらわれた。18世紀後半になると,年貢量の固定などによって藩政の矛盾が表面化した。そのため藩政改革が行われ,佐賀藩では1772年(安永1)に開始された。年貢量に応じた藩財政の運営と殖産興業に重点を置いた政策がとられた。

 1804年(文化1)9月にロシア使節レザノフが長崎に来港し,通商を求めた。ロシア船は翌年3月まで滞在したが,防備のため島原藩や大村藩などの藩兵が動員された。08年にイギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入したが,長崎御番担当の佐賀藩はイギリス人の行為を拱手傍観し,制御できなかった。そのため藩主鍋島斉直は同年11月に逼塞を幕府から命じられた。フェートン号事件は大きな影響を与え,なかでも,佐賀藩は鋭意軍備の増強に力を入れた。

 1838年(天保9)に唐津藩預所で総庄屋対総小前層という形態での村方騒動が発生した。1年近く佐賀藩境に逃散したこの騒動は,幕府の指示で唐津藩と佐賀藩の武力により鎮圧されたが,幕藩制の矛盾が一段と深まったことを示した騒動であった。このため諸藩では藩政改革を余儀なくされた。佐賀藩では農商分離を徹底させるために商人地主の土地を農民に配分した,いわゆる均田制度が61年(文久1)に本藩蔵入地で断行された。19世紀後半になると軍事改革に重点が置かれ,1850年(嘉永3)には佐賀城下町北西部の築地に反射炉を築造し大砲鋳造体制を整えた。54年(安政1)の開国以後は,長崎は貿易港としての比重がいっそう高まり,石炭,蠟など肥前の特産物が長崎で取引された。なかでも石炭は唐津藩の厳木(きゆうらぎ),相知(おうち)での採掘が盛んになり,また佐賀藩はグラバーと共同経営で高島炭鉱(高島炭田)の開発をすすめた。68年(明治1)の鳥羽・伏見の戦で幕府方が敗北して以後,肥前国内の諸藩は多くが朝廷方についた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「肥前国」の意味・わかりやすい解説

肥前国
ひぜんのくに

佐賀県全域、および長崎県の壱岐(いき)・対馬(つしま)を除く地域の旧国名。西海道(さいかいどう)に属す。『肥前国風土記(ふどき)』によれば、肥前国はもと肥後国とともに一国であり、火国(ひのくに)(肥国)と称したという。のち分かれて前後の両国となった。ただし、肥前国と肥後国の間には筑後(ちくご)国が位置しており、一部は有明(ありあけ)海、島原湾などによって隔てられている。また同風土記には、基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神埼(かむさき)、佐嘉(さが)、小城(おぎ)、松浦(まつら)、杵島(きしま)、藤津(ふじつ)、彼杵(そのき)、高来(たかく)の11郡と70の郷が記されている。

 肥前地方は、対馬・壱岐を通じて、古くから朝鮮や中国と交流が深かった。北松浦(きたまつうら)半島の福井洞穴(長崎県佐世保(させぼ)市吉井(よしい)町)は後期旧石器時代から縄文時代に至る重層遺跡であるが、その最下層からは3万年以上前の遺物(大型両面加工石器、スクレーパーなど)が発見されている。当時、陸続きであった大陸から移動してきた人々の遺跡である。また、同遺跡の縄文時代草創期の地層から発見された豆粒文(とうりゅうもん)土器は、現在日本最古の土器(約1万年前)とされている。肥前北部地域には朝鮮や中国との交流を示す遺跡が多く、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡からは縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農器具が発見され、それが日本でもっとも古い稲作遺跡とされていることから、大陸文化の伝播(でんぱ)を早く受け取った地域であったことがうかがえる。東部地域にも遺跡が多く、姫方(ひめかた)遺跡(佐賀県みやき町)からは、弥生(やよい)中期から後期の甕棺(かめかん)400基が発見され、これは甕棺墓としてはわが国で最大級のものであり、国史跡に指定されている。田代太田(たしろおおた)遺跡(佐賀県鳥栖(とす)市)は6世紀後半に築造された装飾古墳で、筑前(ちくぜん)との関連の密接さを示している。また丸山(まるやま)遺跡(佐賀市久保泉(くぼいずみ)町)からは3基の円墳と舟形石棺、円山(まるやま)遺跡(佐賀県小城(おぎ)市三日月(みかつき)町)からは冑(かぶと)、短甲、勾玉(まがたま)などが出土し、古代国家の統一過程の動きがみられる。

 大化改新(645)による集権国家体制の形成により、肥前国にも国府が置かれるようになり、その位置が最近の発掘調査によって佐賀市大和(やまと)町久池井(くちい)であることが確定した。発掘により肥前国庁跡が発見され、国の史跡に指定されている。また、班田収授法に伴う条里制も施行され、佐賀平野の東部から中部にかけて施行された遺跡や地名が残っている。長崎県では、唯一の平野である諫早(いさはや)地方に条里遺構が認められる(諫早市小野町)。

 律令(りつりょう)体制が動揺する8世紀後半ごろから荘園(しょうえん)が形成されてきたが、11世紀には規模の大きな荘園が出現した。院御領の荘園としては神崎荘(かんざきのしょう)、河副(かわそえ)荘、巨勢(こせ)荘などがあり、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)領としては高来別府(たかくべふ)、大楊(おおやなぎ)荘(佐賀県小城市牛津町乙柳(おとやなぎ))、綾部(あやべ)荘(みやき町)、赤自(あかじ)荘(小城市三日月町赤司(あかぜ))が、また、太宰府(だざいふ)天満宮安楽寺(あんらくじ)領として佐嘉荘(佐賀市大和町)、蠣久(かきひさ)荘(佐賀市鍋島(なべしま)町)、鳥栖荘、神辺(こうのえ)荘(ともに鳥栖市)などがあった。

 荘園の荘官や在庁官人が実力を蓄えて武士団を形成していったが、平安末期には高木、後藤、窪田(くぼた)、龍造寺(りゅうぞうじ)などの各氏が存在していた。

 鎌倉時代には後家人(ごけにん)が70家余りいたという。数のうえでは九州でも比較的多いが、その所領規模は概して小さかった。松浦地方に勢力をもったのが松浦源大夫久(まつらげんたいゆうひさし)を祖とする松浦党である。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(1274、81)で蒙古(もうこ)軍と肥前の後家人が戦い、そのとき松浦党に属する諸氏は多くの被害を受けたという。

 南北朝期には、九州における足利(あしかが)方と南朝方の対立を軸に諸氏の離合集散が繰り返されたが、そのなかにあって肥前では少弐(しょうに)氏が勢力を伸ばした。1371年(建徳2・応安4)に今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として入州し、九州の統一を進めたことによって、少弐氏は一時弱体化したが、今川了俊の失脚後はふたたび勢いを盛り返し、筑前に進出してきた大内氏と対抗した。だが、1497年(明応6)に大内氏と戦って少弐政資(まさすけ)が敗死したことから急速に衰えた。かわって勢力を増したのは千葉氏、橘(たちばな)氏である。千葉氏は小城郡晴気(はるけ)荘を拠点に、橘氏は杵島郡長島荘を拠(よ)り所にしていた。しかし16世紀初頭には、それぞれ内紛が起きて衰退した。

 戦国期になると龍造寺氏の台頭が著しい。龍造寺氏は1185年(文治1)に鎌倉幕府から佐賀郡龍造寺村を安堵(あんど)され後家人に任じられているように、古くからの在地領主であり、龍造寺家兼(いえかね)(剛忠(ごうちゅう))のときに少弐氏の勢力拡大に乗じて伸長し、剛忠の曽孫(そうそん)の隆信(たかのぶ)によって肥前全域を統御するまでになった。隆信は1570年(元亀1)に豊後(ぶんご)の大友宗麟(そうりん)の軍を撃破して勢いをつけ、1578年(天正6)には有馬氏を降(くだ)して肥前を制した。しかし、1584年(天正12)に有馬鎮貴(しずたか)・島津家久(いえひさ)の連合軍との戦いで敗死し、龍造寺氏は衰退する。

 1587年は九州地域で画期をなす年であった。豊臣(とよとみ)秀吉の九州進攻と九州内の大名配置が行われたからである。秀吉が鍋島直茂(なおしげ)を長崎奉行(ぶぎょう)に任命したように、龍造寺氏の家中にあって鍋島氏は実権をしだいに掌握し、朝鮮侵略でそれを確定した。

 朝鮮侵略との関連で肥前の領域が決まり、江戸時代の大名配置の基礎となった。たとえば、肥前東部の基肄郡と養父半郡は1587年には小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与えられていたが、99年(慶長4)には対馬領主の宗義智(そうよしとし)に宛行(あておこな)われ、また、松浦郡は波多(はた)氏が領していたが、93年(文禄2)に波多親(ちかし)が秀吉によって改易され、その所領は秀吉側近の寺沢広高に与えられた。

 幕藩期には、肥前に、佐賀藩35万7000石、小城藩7万3252石、鹿島(かしま)藩2万石、蓮池(はすのいけ)藩5万2600石、大村藩2万7977石、唐津(からつ)藩6万石、五島(ごとう)藩1万2600石、島原藩7万石、平戸(ひらど)藩6万1700石、平戸新田藩1万石(以上の石高(こくだか)は明治初年の表高)の10藩と、対馬藩田代(たしろ)領1万1000石余と天領(長崎周辺)が置かれた。佐賀藩では1607年の龍造寺政家(まさいえ)・高房(たかふさ)の死去によって鍋島氏が名実ともに実権を掌握し、のち小城・鹿島・蓮池3藩を支藩として興した。唐津藩は寺沢氏の断絶により一時天領となるが、1649年(慶安2)に大久保忠職(ただもと)が入封して譜代(ふだい)藩領となり、以後、松平、土井、水野、小笠原(おがさわら)の諸大名が転封してきた。島原藩は初め有馬氏領であったが、一時天領となり、ついで松倉氏が入封して譜代藩領となった。しかし、1637年(寛永14)島原の乱を惹起(じゃっき)することとなり、翌年松倉勝家(かついえ)は除封され、以後、高力(こうりき)、松平の各大名が入封した。平戸藩は歴代松浦氏の支配であり、平戸新田藩はその支藩である。大村藩、五島藩は、それぞれ大村、五島氏の支配にかかる外様(とざま)の小藩である。また、田代領には対馬藩の代官所が置かれ、長崎は幕府の長崎奉行所が管轄した。

 明治維新を迎えると肥前は廃藩置県によって大きく変わった。1871年(明治4)7月には佐賀、小城、鹿島、蓮池、唐津の各県が成立し、9月厳原(いづはら)県(旧対馬藩)と合併して伊万里(いまり)県となり、翌年佐賀県と改称、76年には一時三潴(みづま)県に併合され、さらに長崎県に併合された。また、71年に大村、島原、平戸、福江(旧五島藩)の各県も成立し、同年長崎県に統合された。83年5月長崎県のうちに肥前10郡を分けて佐賀県を再置し、現在の2県となる。肥前の物産には、有田焼(ありたやき)(伊万里焼)、唐津焼、長崎木綿、べっこう細工、長崎カステラなどがある。

[長野 暹]

『『佐賀県史』全3巻(1967~68・佐賀県)』『『長崎県史』全8巻(1963~80・吉川弘文館)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「肥前国」の解説

ひぜんのくに【肥前国】

現在の壱岐(いき)対馬(つしま)を除く佐賀県長崎県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の佐賀市大和(やまと)町におかれていた。南北朝時代少弐(しょうに)氏が勢力を伸ばしたが、戦国時代には竜造寺氏が戦国大名に成長した。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき))で朝鮮から連れてこられた陶工によって有田焼(ありたやき)の基礎がつくられた。近世には長崎がオランダ貿易の窓口として栄え、江戸幕府直轄領の長崎を支配するため、幕府は長崎奉行をおいた。1637年(寛永(かんえい)14)に勃発(ぼっぱつ)した島原の乱の後、キリシタン統制が強まった。江戸時代には佐賀藩唐津藩など10藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により伊万里(いまり)県、長崎県が誕生。伊万里県は翌年に佐賀県と改称、1876年(明治9)に三瀦(みずま)県、さらに長崎県に編入されたが、1883年(明治16)に佐賀県が再置された。◇肥後(ひご)国(熊本県)と合わせて肥州(ひしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「肥前国」の意味・わかりやすい解説

肥前国
ひぜんのくに

現在の佐賀県と,壱岐国,対馬国を除く長崎県の旧国名。西海道の一国。上国。古くは「火国 (ひのくに) 」と称した。天武天皇の頃 (674~685) に肥前と肥後とに分かれたとみられる。『魏志倭人伝』の末盧国は唐津市付近とされる。『旧事本紀』には松津国造,末羅国造,葛津立国造,筑志米多国造の4国造があったとされている。『肥前国風土記』には肥前についての古い伝承が記録されているが,現存するものは抄本であり,その成立も奈良時代と平安時代とに分かれ,11郡,70郷とみえる。国府,国分寺はともに佐賀県佐賀市。『延喜式』には基肄郡,養父郡,三根郡などの 11郡,『和名抄』には 45郷,田1万 3900町を載せている。鎌倉時代には初め大宰少弐 (だざいのしょうに) の武藤氏が守護も兼ねたが,のちには北条氏がこれにあたり,鎮西探題 (→九州探題 ) 兼補となった。南北朝時代には一色氏,室町時代には今川氏,渋川氏が守護となったが,肥後の菊池氏が勢力を伸ばしたときもあり,松浦郡には松浦党と称する武士団があり,さらに小城の千葉氏は肥前国一円に勢力をふるった。戦国時代には龍造寺隆信が少弐氏を破って一時肥前国を支配した。江戸時代には佐賀に鍋島氏,平戸に松浦氏,大村に大村氏,五島 (のちに福江) に五島氏などが封じられ幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,伊万里県と長崎県になり,同5年に伊万里県は佐賀県となったが,1883年に現在の佐賀県と長崎県に改編された。

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百科事典マイペディア 「肥前国」の意味・わかりやすい解説

肥前国【ひぜんのくに】

旧国名。西海道の一国。ほぼ現在の佐賀県と対馬(つしま)・壱岐を除く長崎県。もと火(肥)の国。7世紀後半,肥前・肥後2国に分け,《延喜式》に上国,11郡。国府は佐賀県大和町(現・佐賀市)付近。中世,松浦(まつら)党をはじめ,有馬・大村・竜造寺・五島氏らが活躍。近世,竜造寺氏を継いだ鍋島氏の佐賀藩などが置かれた。→肥国島原の乱島原藩平戸藩唐津藩
→関連項目九州地方佐賀[県]佐嘉荘値賀島長崎[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「肥前国」の解説

肥前国
ひぜんのくに

西海道の国。現在の佐賀県と,対馬・壱岐を除く長崎県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では基肄(きい)・養父(やぶ)・三根(みね)・神埼・佐嘉(さが)・小城(おぎ)・杵島(きしま)・藤津・松浦(まつら)・彼杵(そのき)・高来(たかく)の11郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺と一宮の河上神社は佐嘉郡(現,佐賀市大和町)におかれた。「和名抄」所載田数は1万3900余町。「延喜式」では調に海産物が多い。かつての火(肥)国(ひのくに)が前後にわかれた。福井洞穴や吉野ケ里などの遺跡に恵まれ,「魏志倭人伝」の末盧(まつら)国の故地でもある。中世には勅旨田に由来する神埼荘や河上神社領などの荘園が広がる。一方松浦党(まつらとう)などの水軍が発展し,倭寇の根拠地ともなる。守護ははじめ少弐(しょうに)氏,のち鎮西探題・九州探題の兼任が長い。戦国期には竜造寺・松浦・有馬・大村氏らの群雄が割拠した。近世には佐賀・唐津・平戸・大村・久留米・福江の各藩が成立。長崎は幕領として唯一の外国に対する窓口となった。1871年(明治4)の廃藩置県の後,伊万里県(翌年佐賀県と改称)・長崎県に統合された。のち多少の変遷をへて,83年佐賀県と長崎県になる。

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世界大百科事典(旧版)内の肥前国の言及

【肥の国(火の国)】より

…古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。…

※「肥前国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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