桜町(読み)さくらまち

精選版 日本国語大辞典 「桜町」の意味・読み・例文・類語

さくら‐まち【桜町】

[一] 栃木県芳賀郡二宮町の地名。もと旗本の領地で荒廃していたのを、文政五年(一八二二)以後一五年間で二宮尊徳が復興した地。
[二] 長崎市目抜き通り江戸時代には代官所・牢屋敷があった。

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日本歴史地名大系 「桜町」の解説

桜町
さくらまち

[現在地名]中津市中津 桜町

明蓮みようれん寺門前より北門きたもん通まで南北に続く約三町の両側町で、西はふな町・しお町。職人が多かった。享保四年(一七一九)には軒数九三・竈数一三四。宝暦一三年(一七六三)舟町からの大火で五一竈と明蓮寺のなかの善教ぜんきよう寺・徳勝とくしよう寺の庫裏を類焼した。天明元年(一七八一)当町横丁より出火し、豊後ぶんごかみノ辻まで一二軒を焼失し死者が出た。安永六年(一七七七)の調査では空地七・空家七とあり、文化二年(一八〇五)には一〇一軒(うち天神社一・渡辺上野介一)・九二竈、五空家・二空地とある(惣町大帳)。享保三年当町甚七は新魚しんうお町与兵衛とともに、草屋の許可を願出て許された。草葺は町中禁止されているが、身上不勝手の者については町年寄六人が相談して、町奉行の承認を求めることになっている。

桜町
さくらまち

[現在地名]長崎市桜町

豊後ぶんご町の北東、岩原いわはら川左岸にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ東西に形成され、享和二年(一八〇二)の長崎絵図にサクラ町とある。当初は裏手に喜蔵きぞう町・クルス町があり、また町域の一部はひがし町と称した。キゾウ町は東町の俗称ともいう。天正一六年(一五八八)豊臣秀吉の直轄領となり、地子銀が免除された。クルス町と称されたのはキリシタンの町に由来するもので、教会やキリシタンの死体を葬る墓地があったといわれ、慶長一六年(一六一一)サン・フランシスコ教会が建てられたが、同一九年教会は破壊され、跡地に牢屋が設けられた(「長崎志」など)。慶長元年豊後町との境に長崎警衛の要として大堀(二ノ堀)が造られた(「華蛮交易明細記」など)。同五年うま町などにあった牢屋敷が当地に移された。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「くるす町」の「はうろ」「るひざ」が署名している。

桜町
さくらまち

[現在地名]大分市中央町ちゆうおうまち二丁目

西小路にしこうじ町の南にあり、南は東西に延びるたけ町。慶長府内絵図に町名がみえ、東頬五〇間・西頬四九間、東西の入一五間。竹町の町並は当町まで延びておらず、南はむろ町。町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によれば酒造業者が一軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)六石二斗余、元禄一〇年(一六九七)三八石六斗余、正徳五年(一七一五)一二石八斗余。当町の計屋橋本屋五郎左衛門は寛文三年(一六六三)七島藺を府内にもたらし、のちに豊後特産となった青莚(七島表・豊後表)の基礎をつくった一人といわれる(「大分県史蹟名勝天然記念物報告書」一二)

桜町
さくらまち

[現在地名]水戸市かね町二―三丁目

上金かみかね町の北に東西に走り、東は了性寺りようしようじ(元禄三年の令で桜坂)、西はたき坂へ通じる道の間の通りに沿った片側町。北側は崖で下は常葉ときわ村。町内に寺院が多かったため古くは上寺かみてら町と称し、「水府地名考」の桜町の項に上寺町と併記されるが、のち桜町と改めた。改めた時期は同書に「未考」とあり不明。町名の由来は「水府地理温故録」に「桜町の称号しる処なし。寺院此地に有し時、桜樹多く植置しなどによりて起りし称号成べし」とあり、「水府地名考」では「古へは桜多くありし所と見へたり」とする。

元和二年(一六一六)本法ほんぽう(法華宗)梅香ばいこうよりこの町へ移り、天和三年(一六八三)見川みがわ村へ移った(開基帳)ほか、本行ほんぎよう(法華宗)江林こうりん(臨済宗)・吉祥院(真言宗)竜蔵りゆうぞう(真言宗)善重ぜんじゆう(一向宗)・不動院(真言宗)、高野坊富士別当富士権現などがあったが、寛文―天和年間(一六六一―八四)にすべて郷地へ移った。

桜町
さくらまち

[現在地名]姫路市本町ほんまち

姫路城の南の中曲輪に位置する武家地。大手おおて門前の東西に長い町筋。歴代町年寄の国府寺家が当地の通りに桜樹を植えたので、大手門を桜門といい町名にもなったという説(大正八年刊「姫路市史」)ひめ山を桜木さくらぎ山といったことから名付けたという説などがある。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。同五―八年の姫路城郭図には三五軒ほどの屋敷がみえ上級武士が配置されている。

桜町
さくらまち

[現在地名]島原市桜町

島原城の南に位置し、東はよろず町と接する。寛永一五年(一六三八)の島原町人数覚(島原の歴史藩制編)では一二七人。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳ではふる町別当の管轄三ヵ町として桜町がみえる。延宝二年(一六七四)当町からの失火で四一五軒の延焼、享保元年(一七一六)には六七〇軒の延焼被害を出した(「深溝世紀」など)。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ一〇四間・幅二間半。同年の島原大変によるまゆ山の崩壊で古町通の当町などは津波を受け(島原大変聞録)、流死者数九六という(晴雲寺過去帳・快光寺過去帳など)

桜町
さくらまち

[現在地名]南区安堂寺あんどうじ町一丁目

現南区北東端にあり、北は竜蔵寺りゆうぞうじ(現東区)、東は上本うえほん町四丁目北半きたはん。東西の安堂寺橋あんどうじばし筋の両側町。「天保町鑑」には西隣坂田さかた町に続けて「右つゞきの丁上本町筋迄」と記される。明暦元年(一六五五)には上魚屋かみうおや町といい、延宝八年(一六八〇)に桜町と変わった(南区志)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数五二・役数五二役。

桜町
さくらまち

[現在地名]飯田市桜町一丁目・二丁目、大門だいもん

たに川の北にあり、伝馬てんま町の北に続く町筋。

「飯田万年記」に「正保五子年三月御城下惣曲輪外に町家を被仰付、則三町割付御書付町御奉行渡辺九郎兵衛殿、野瀬太兵衛様其他御役人御家老中御判物被下候、一間に間口五間口に被仰付候、飯田より江戸への出口たるによって伝馬町元名残町目前伝馬宿に被仰付候、名桜町と名付」とみえる。江戸付出しの伝馬の賦役を一ヵ月に二〇日勤めることになっていた。その代り地子は免除された。賦役は月の一〇日までは伝馬町、一一日から晦日までは桜町であった。慶安元年(一六四八)の「町方役用記録」に「三月桜町五間口宛を割付被仰候、渡辺九郎兵衛殿、高之瀬久兵衛殿、御町奉行也、其外御役人、御家老衆、御判物被下候、其外町役御免、地子米御免、伝馬相勤候、伝馬御用上十日伝馬町、下廿日桜町三丁」とみえる。

桜町
さくらちよう

[現在地名]岡山市南中央町みなみちゆうおうちよう東中央町ひがしちゆうおうちよう

外堀外の城の南西にあり、旭川と西にし川との間に位置する郭外職人町。東西・南北の道で仕切られた両側町。東は細堀を隔てて大工だいく町、南は武家屋敷、西は細堀を隔て七軒しちけん町武家屋敷、北は細堀・道を隔て尾上おのうえ町。寛永城下絵図には町名の記載はなく、慶安城下絵図では「新左衛門町」、延宝二年(一六七四)御触留(国富文書)では桜町とみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は五反八畝余、うち御免地御金具屋半右衛門屋敷一畝余を除き徳米五石余・口米一斗余。

桜町
さくらまち

[現在地名]関宿町関宿町 桜町

関宿城の南から東を占める武家町。同城三の丸佐武門から南下して大手門に通じる道を中心に展開した。大手門を境に南は江戸えど町に続いた。元禄年中(一六八八―一七〇四)以降のものとみられる城絵図(浅野文庫蔵)ではこの大手門に通じる道に「サクラ丁」と記され、正保城絵図(内閣文庫)では侍屋敷地であった。久世氏(第二次)の時代佐武門の西手には番所、東手に牢屋が置かれ、文政七年(一八二四)当町の北端部に藩校教倫きようりん館が建てられた(東葛飾郡誌)

桜町
さくらまち

[現在地名]小樽市桜一―五丁目・若竹町わかたけちよう

昭和一八年(一九四三)一月船浜ふなはま町と同じく小樽市大字東小樽ひがしおたる・同熊碓村くまうすむらより分割、うち桜町は山手側に立地する。当時幹線街路の両側に八重桜が植えられていた。町名は一般公募による。昭和一〇―一五年朝里あさり村議会の決議を経て東小樽土地区画整理組合により土地区画が実施された(小樽桜町由来小誌)

桜町
さくらまち

[現在地名]下館市へい 桜町

勤行ごんぎよう川右岸にあり、北は金井かない町。藩主松平氏の時に造られた町で、町名は水谷氏が当地に桜を植えたことにちなむといわれる(下館町郷土史)。寛永一六年(一六三九)の下館城図(田宮家蔵)に町名があり、「下館日記」抄の正保元年(一六四四)に「廿七日、まちへいでぬ、(中略)東下りに田町・かない町・さくら町、三すじ」とある。松平氏時代の町人屋敷規定(田宮家文書)には「壱軒前、表口六間奥行十五間」とあり、黒田氏時代の町並は木戸から桜町止りまで一一四間(同文書)

桜町
さくらちよう

[現在地名]宇和島市桜町さくらまち佐伯町さえきまち一丁目

昔、この町では桜樹を一戸に一本以上必ず植えていたので、この名がついたという。東はなかちよう、西は浜御殿はまごてんに接する。町内に内田うちだ横丁・萩森はぎのもり横丁という地名もある。

桜町
さくらまち

[現在地名]八幡町桜町

城の南、吉田よしだ川の北にあり、東西に長く延びる。対岸は赤谷あかだに村。慶長五年(一六〇〇)の八幡城合戦を描いた合戦図(延宝二年写、大分県臼杵市立図書館蔵)には桜大門が記され、町名との関連が推測される。町全体が侍屋敷で、寛文年間(一六六一―七三)の町絵図には「サクラ丁」とみえ、侍屋敷は九軒。

桜町
さくらまち

[現在地名]明石市桜町

四分割される明石城郭内の一番東側の区画南端に位置する。郭内と城下町をつなぐ細工さいく御門を入ったすぐ東側に真っ直ぐに延びる町。北は当町の町並と並行して東仲ひがしなかノ町、南は外堀に面している。明石藩士が居住した家中町の一つ。享保年間(一七一六―三六)の明石城下図、文久年間(一八六一―六四)明石町之図、同三年の明石町旧全図に町名がみえる。

桜町
さくらまち

[現在地名]金沢市桜町

明治二年(一八六九)横山家の下屋敷跡に町立てされた。浅野川川除あさのがわかわよけ町の南にあたり、浅野川に沿って南の一番丁から北の六番丁までの六町に分れる。横山家は加賀藩八家の一で、「金沢古蹟志」によれば慶長一九年(一六一四)二代藩主前田利長の没後、利長室玉泉院が新丸にあった横山家上屋敷に入り、西の丸の館に移るまで居住した。

桜町
さくらまち

昭和二七年(一九五二)に設定された。南西はいずみ町・清月せいげつ町。南東境を常呂ところ川が北流し、南西を東三号、北東を東四号が通り、北西はJR石北せきほく本線で区切られる。

桜町
さくらまち

[現在地名]大館市桜町

城下町南端部にあり、本藩直臣の給人の住む武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「桜町」とある。東西に走る道路を軸に形成され、西は谷地やち町、北は部垂へだれ町に隣接。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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