中津市(読み)ナカツシ

デジタル大辞泉 「中津市」の意味・読み・例文・類語

なかつ‐し【中津市】

中津

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日本歴史地名大系 「中津市」の解説

中津市
なかつし

面積:五五・五四平方キロ

県北端にあり、北は周防灘、西は山国やまくに川を境として福岡県築上ちくじよう吉富よしとみ町・新吉富しんよしとみ村・大平たいへい村、東は宇佐市、南は下毛郡三光さんこう村に接する。市域は山国川東岸の沖積平野(中津平野の西半部)とこれを包む低平な洪積台地(大貞台地)からなる。市の東端を犬丸いぬまる川が北流して海に注いでいる。両川の間に用水路の水を集めて、蛎瀬かきぜ川・自見じみ川・舞手まいて川などが海へ注ぐ。中心市街地は市の北西部、山国川河口部である。中津の名は江戸時代初期、黒田氏入部以降のことで、それ以前は「中津川作人彦五郎」のように(「下毛郡本自見名検見取帳」永弘文書)、「中津川」とみえる。

〔原始〕

縄文時代は標高一〇メートル前後の洪積台地縁端に植野うえの貝塚・定留さだのみ貝塚・入垣にゆうがき貝塚、山国川自然堤防上に高畑たかばたけ遺跡などの遺跡がある。弥生時代に入ると遺跡は市内全域に展開、福島ふくしま遺跡・高瀬たかせ遺跡・上万田かみまんだ遺跡などが知られる。古墳時代には下池永の亀塚しもいけながのかめづか古墳が当地域最大の前方後円墳として知られたが、現在は消滅した。古墳時代後期の古墳は数多く分布する。野依のより伊藤田いとうだ窯跡群には県下最大級の須恵器の窯跡がある。

〔古代〕

奈良時代以前山国川を御木みけ川と称したらしく、この川を中心とした地域を膳県みけのあがた(「筑後国風土記」逸文)、または三毛みけ郡と称していたものか。律令時代には上三毛かみつみけ(「豊前国上三毛郡塔里戸籍」正倉院文書)がみえることより、下三毛郡の二郡に分離され、「和名抄」では下毛郡となる。下毛郡七郷のうち山国・諫山いさやまを除く、大家おおえ野仲のなか麻生あそう穴石あないわ小楠おぐすの五郷が市域にあったと考えられる。この地はいちはやく大陸文化を受容した宇佐宮の影響が強く、三角みすみ(御澄池)の築造を中心とした野仲郷域の開発や白鳳期寺院である相原廃寺や野仲・大家両郷の宇佐神封化は、古代前期を特徴づける。

中津市
なかつし

2005年3月1日:中津市が下毛郡山国町耶馬渓町本耶馬渓町三光村を編入
【山国町】大分県:下毛郡
【耶馬渓町】大分県:下毛郡
【本耶馬渓町】大分県:下毛郡
【三光村】大分県:下毛郡
【中津市】大分県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中津市」の意味・わかりやすい解説

中津〔市〕
なかつ

大分県北西端,周防灘に面し,福岡県に接する市。 1929年市制。 1943年鶴居村,大幡村,如水村の3村,1951年三保村,1954年和田村,1955年今津町,2005年三光村,本耶馬渓町,耶馬渓町,山国町の1村3町をそれぞれ編入。中心市街地は山国川河口の沖積平野に位置し,天正 15 (1587) 年黒田孝高が入部,以後,細川氏,小笠原氏,奥平氏の支配を受け,豊前中津藩の城下町として発達。伝統産業としては和傘,うちわがあるが,工業の主体は従来の繊維工業から製鋼および電子関連の先端科学産業に移っている。また,県下有数の米どころとして知られ,米作のほか野菜栽培,果樹栽培などが行なわれる。沿岸は遠浅で,干潮時には干潟ができ,ノリ養殖など浅海漁業が中心。内陸部は大部分を山地が占め,製材業,シイタケ栽培などが盛ん。市域中部,山国川中流域に名勝耶馬渓青ノ洞門があり,一帯は耶馬日田英彦山国定公園に属する。ほかに古要神社の傀儡子の舞と相撲 (国指定重要無形民俗文化財) を伝え,福沢諭吉の旧邸 (国指定史跡) ,中津城跡池大雅の障壁書画多数をもつ大雅堂などがある。 JR日豊本線,国道 10号線,212号線,496号線,500号線が通じる。面積 491.44km2(境界未定)。人口 8万2863(2020)。

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