日本大百科全書(ニッポニカ) 「旗」の意味・わかりやすい解説
旗
はた
竿(さお)などの棒に布や紙をつけたもの。その目的は、何かを指し示し、また信号、標識とすることであり、それに象徴的意味が付与され、超自然性を帯びることがある。アメリカ・インディアンが、石積みの上に信号用の柱を立て、水くみ場への方向を指示する道路標識や、ある物の所属を明らかにし、盗みへの威嚇をも含む柱などの財産標識は、もともとこうしたものが旗の機能をもつことをうかがわせる。フラッグflagは、単に細長い棒の先に標章が彫られたり、つけられたものであり、それが一方で石柱などの建造記念物となり、他方で旗へと分化したと思われる。
古代エジプトでは、軍用の旗が用いられており、王や王族の旗もあり、寺院の祭壇前の柱を小旗で飾ることも行われた。古代オリエント世界を通して、旗は戦旗として大きな意味をもち、ことに戦車と結び付いている。一方、古代イスラエルにおいては、人々の集まる中心地に旗が掲げられた。古代ギリシアの各都市も、聖なる標章を旗にしるした。アテネのフクロウやオリーブ、テーベのスフィンクスなどである。ギリシアにおいて、槍(やり)の穂先に兜(かぶと)や鎧(よろい)の一部をつけるのは、先端に標章をつけた槍や棒を戦闘的に用いたオリエント世界からの影響であろう。古代ローマでは、軍旗に、オオカミ、半牛半人、ウマ、イノシシなどが描かれ、やがて勝利の前兆を示すカシの葉を口にし、翼を広げたワシの軍旗が定められた。騎兵隊のベクシルムvexillumは、竿の先に直角に交差する棒を通し、そこから縁どりした正方形の布を垂らした旗を用いた。各隊は、旗を先頭に立てて進み、戦闘中は後衛に置いたという。キリスト教の教会旗はこれから生じたもので、4世紀コンスタンティヌス帝が夢にみたことに始まるとされる。旗には、キリスト教を意味するマークや宗教的象徴がつけられた。
インドにおいても、ベーダで神の軍が「太陽の旗をもつ」といわれ、『マハーバーラタ』から、動物の標章の旗のあったことが知られる。そして旗は、二輪戦車やゾウによって運ばれ、旗が倒れると混乱や敗戦を意味した。中国では、周の武王の時代に白旗が王旗として用いられ、青竜(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)の四神旗は、四方や世界を象徴するものとして王権と結び付いている。旗はある意味で王そのものであり、旗への非行はしばしば死罪をもって報いられた。旗は、『周礼(しゅらい)』のなかの八旗のように、用いる者の身分やその用途によって、図案や種類が定められていた。たとえば、「常(じょう)」は日月を図案とし、皇帝が用い、「旂(き)」は交竜を描き、諸侯のためにあった。また羽毛を竿飾りとする「旌(せい)」や、ヤクの毛を先につけた「旄(ほう)」、象牙(ぞうげ)で飾られた「牙旗(がき)」などもあった。「幢幡(どうばん)」は、仏教などの宗教儀礼に用いられる幟旗(のぼりばた)である。
西洋の旗も、種類によって名称が異なっている。スタンダードstandardは、もっとも大型で、一定の場所に固定される。もともと横長で切れ込みをもつ先端に向かってとがっている。バナーbannerは、正方形また長方形で、戦闘中に掲げた。ほかに、騎士が戦いに用いたガイドンguidonなどがある。なお、偶像崇拝の禁止されるイスラム教国の旗は単純なものが多い。
日本の旗(はた)は、布地の意味の「ハタ」が語源とされ、王権や軍事のみならず、宗教的なものと深く結び付いている。それは神降臨の顕(しるし)であり、京都賀茂(かも)神社の御阿礼(みあれ)神事では、賢木(さかき)に五色の帛(はく)を結び付けた幡(はた)が立てられる。『宇佐八幡(はちまん)宮託宣集』には、この神の化身である応神(おうじん)天皇降誕のときに、天より八流の幡が降下したとある。そして、この観念は仏教とも混じり、仏像を幡蓋(ばんがい)で覆うことは、仏の来臨の表現を意味するともされる。今日、運動会などの会場を万国旗で飾るのは、単なる装飾のみならず、それで非日常の空間を演出する意味が含まれているのであろう。
[田村克己]
日本の旗の歴史
幡・旌とも書く。古代以来、軍陣を中心に祭事・儀礼にも使用された。おもに縦長で、上辺の旗上(はたがみ)を竿(さお)に結ぶ流旗(ながればた)、鉾(ほこ)などにつけた比領(ひれ)という小旗などが古い形式である。のちに上辺と縦の一辺を竿につける、やはり縦長の幟旗(のぼりばた)とよばれる形が現れ、さらに正方形に近い形など、さまざまな種類も生じた。
古代、軍旗としての使用は『万葉集』にみえ、推古(すいこ)紀には、盾・靭(ゆぎ)とともに旗をつくり、それに絵を描かせたとみえ、紋様をつけて識別したことがわかる。軍防令(ぐんぼうりょう)には軍旗の制があり、将軍旗は纛幡(とうばん)、隊長旗は隊幡、兵士の旗は軍幡と注する(『令義解(りょうのぎげ)』)。すでに所属・職階の標示となっている。
これらの古制を伝えたのが、即位、朝拝などの大礼に近衛(このえ)の陣に立てられる儀仗(ぎじょう)の旗で、流旗形式であり、以後の旗幟(きし)の祖形と考えられる。『和名抄(わみょうしょう)』に旗足(はたあし)の名称があるように、長旗である流旗が一般的であったのである。この流旗は中世武士の勃興(ぼっこう)とともに盛行し、『吾妻鑑(あづまかがみ)』の文治(ぶんじ)5年(1189)7月8日の条に、長さ1丈2尺(約3.6メートル)、二幅(ふたの)(約0.6メートル)で、上部に伊勢(いせ)神宮と八幡宮(はちまんぐう)の神号、向い鳩の紋を縫ったという記事がある。神号・家紋をつけた流旗は、源平の旗のように色による意匠とともに軍記物語にしばしば登場する。『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』には、白地に黒で家紋をつけ、末端を二つに切り裂き、末濃(すそご)に染めたものなどの流旗が数多く描かれる。
室町時代末ごろに、幟旗形式、すなわち上辺および縦の一辺に乳(ち)をつけ竿に通す乳付旗(ちつけばた)が出現する。戦国時代から近世以降は流旗にかわってこの形式が主流となる。とくに個人の標識、所属を示す旗指物(はたさしもの)の使用の盛行とともに、四半(しはん)・四方(しほう)などとよばれる形式の方形や、矩形(くけい)、芭蕉(ばしょう)の葉形の長三角形の靡(なびき)、撓(しない)形式、長辺の一方を切り裂いた切裂靡(きっさきなびき)など形状に多様な意匠を生じた。さらに各様の紋様・色も多彩を極めるようになる。これらの旗の基本形である流旗は、旗の上辺に横手(よこて)(旗上)を通して、その横手の両端から紐(ひも)を出して旗竿の上端の蝉口(せみぐち)に結び付けた。旗の布地の下部は旗の足(あし)とか旗の手(て)などという。『蒙古襲来絵詞』にみられるように、横手から裏表に、旗を巻き納めるために革紐などをつけたが、これも手という。
近世以来、流旗は廃れた。幕末に至って官軍の旗として、古制による錦(にしき)の御旗などが復活したことがあるが、主流は幟旗形式であった。また古来、旗は軍陣の標識として、重要な存在であったため、甲斐(かい)源氏武田氏の御旗のように神聖視される例もあり、旗を入れる(侵攻)、旗を進める(進撃)、旗を挙げる(挙兵)といった軍勢を象徴するような表現も生じた。
また、幕末、開国とともに、日本国の主権標示の旗の必要を生じ、幕府は、1854年(安政1)、白地に日の丸の幟(のぼり)を日本国総船印(ふなじるし)とした。明治維新後、1870年(明治3)、太政官(だじょうかん)布告で、この日の丸を商船旗に制定。同年、軍旗制定、旭日(きょくじつ)章を陸軍の聯隊旗(れんたいき)、日章を海軍の軍艦旗、1873年改めて旭日章とした。以後この四角形の日の丸が、慣習的に国旗として用いられていたが、1999年(平成11)施行の国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号)により、法的にも国旗と定められた。
[齋藤愼一]