千葉常胤(読み)ちばつねたね

精選版 日本国語大辞典 「千葉常胤」の意味・読み・例文・類語

ちば‐つねたね【千葉常胤】

鎌倉初期の武将。下総権介平常重の子。治承四年(一一八〇源頼朝が挙兵に失敗して安房(あわ)に移った時、一族を率いて頼朝に従い信頼を得た。のち、平氏追討、奥州征伐などで戦功をたて、鎌倉幕府創設につくした。元永元~建仁元年(一一一八‐一二〇一

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改訂新版 世界大百科事典 「千葉常胤」の意味・わかりやすい解説

千葉常胤 (ちばつねたね)
生没年:1118-1201(元永1-建仁1)

鎌倉幕府創立期の武将。父は下総権介平常重,母は常陸の豪族平政(幹)の娘,妻は武蔵の豪族秩父重弘の娘。下総権介。千葉荘検非違所,相馬御厨(そうまのみくりや)下司職のほか立花郷(東荘(とうのしよう))にも所領をもち,平安末期から千葉亥ノ鼻(いのはな)台の館に住む。保元の乱に源義朝に属し,1180年(治承4)9月,石橋山の合戦で敗れた源頼朝が房総に逃れるとこれに応じ,富士川の合戦で平維盛の軍を破った頼朝が上洛しようとしたとき,東国経営の重要性を説いてその後の幕府の創立に貢献。以後常胤は御家人筆頭として重視され,行賞などもつねに最初に与えられた。84年(元暦1)の木曾義仲と平家追討の軍に参加,源範頼を助けて西海の統治に努め,義経離反後の京都の治安維持に派遣され,89年(文治5)の奥州征討には東海道軍の大将軍に任じられた。こうした功により,下総国守護となり平安期に分立していた一族諸流を統一,岩城郡好島荘預所職のほか陸奥の海道諸郡,美濃国蜂屋荘,肥前国小城郡晴気保,薩摩国島津荘寄郡など多くの地頭職を与えられた。

 1192年(建久3),征夷大将軍に任じられた頼朝が公卿の風をまねて政所下文に改めた際,常胤はこれを最初に与えられたが,頼朝直判の下文を要請した。これは常胤など有力御家人と頼朝との私的信頼関係を示す逸話として知られる。常胤は素朴で誠実な人柄で頼朝の信頼は厚く,政子が頼家を懐妊したときには妻が腹帯を整え,その誕生の七夜の儀は妻子とともにこれを主催,実朝誕生の際にも四夜の儀を沙汰している。また東国政権成立の翌1181年(養和1)元日に常胤が椀飯(おうばん)を献じたが,これは幕府年頭椀飯の初例となった。頼朝死後の99年(正治1)に梶原景時弾劾の連署に参加,翌年1月に椀飯を務めたが,1201年3月に84歳で逝去。千葉市大日寺に五輪塔がある。男子が6人あり,胤正は千葉介として家を継ぎ,師秀は相馬,胤盛は武石,胤信は大須賀,胤通は国分,胤頼は東(とう)の家をおこし,それぞれに発展する。
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朝日日本歴史人物事典 「千葉常胤」の解説

千葉常胤

没年:建仁1.3.24(1201.4.28)
生年:元永1.5.24(1118.6.14)
鎌倉前期の御家人。常重の嫡子。母は平政幹の娘。長承4(1135)年2月,常重から上総国相馬御厨を伝領。しかし,こののち国守藤原親通や源義朝の介入によって支配権は安定しなかった。保元の乱に源義朝の軍に属したのは,在地支配権維持のため,義朝と主従関係を結んだ結果とみられる。しかし,平治の乱で義朝が滅亡すると,相馬御厨は隣国常陸の佐竹氏の領有に帰し,また藤原親通の孫で下総千田庄に居住していた親正が平家と結んで勢力を拡大したため,千葉氏の所領は本領千葉庄のほか葛飾郡国分寺・上総国山辺北郡堺郷にすぎなくなった。平氏政権下,平家と二重の姻戚関係を結んだ藤原親正は千葉氏と同じ両総平氏一族の原・金原氏などを配下におさめ,いよいよ千葉氏を圧迫した。こうした状況下で,治承4(1180)年8月,伊豆で源頼朝が反平家の兵を挙げると,一族をあげて積極的にこれに応じ,平家方の下総目代を討ち,上総広常の来援をえて藤原親正の軍にも勝利した。その後,木曾義仲・平家追討には一族を率いて源範頼の軍に属し,壇ノ浦合戦後も鎮西守護人として九州にとどまり,戦後処理に当たった。この間,寿永2(1183)年12月に上総広常が頼朝に誅殺されたことにより,実質的に両総平氏族長の地位も確立している。文治3(1187)年8月,上洛して京中の狼藉を鎮め,同5年の奥州藤原氏追討の際は東海道大将軍として出陣した。これらの勲功によって,下総・上総はもとより,薩摩,肥前,豊前,陸奥などの各地に多くの所領を獲得し,下総守護に補された。頼朝の信頼はきわめて厚く,御家人の筆頭として奥州合戦には勲功の賞を最前に拝領した。また年頭の椀飯沙汰(祝儀の品を添えて椀飯を献ずる儀礼)も常胤が最初に務めるのが恒例であった。鎌倉幕府の草創と千葉氏発展の基礎を固めた人物として後世においても尊崇され,千葉氏や両総平氏一族の子孫は「胤」の字を名の通字に用いて同族内の紐帯とした。<参考文献>福田豊彦『千葉常胤』,野口実『坂東武士団の成立と発展』,同『鎌倉の豪族Ⅰ』

(野口実)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千葉常胤」の意味・わかりやすい解説

千葉常胤
ちばつねたね
(1118―1201)

鎌倉幕府草創期の武将。元永(げんえい)元年5月24日生まれ。父は良文(よしぶみ)流平氏下総権介(しもうさごんのすけ)常重(つねしげ)、母は常陸(ひたち)の豪族平政(たいらのまさもと)の娘。下総国千葉に住し、下総権介、千葉荘検非違所(しょうけびいしょ)、相馬御厨下司職(そうまみくりやげししき)のほか、立花郷(東庄(とうのしょう))などを継承。保元(ほうげん)の乱に源義朝(みなもとのよしとも)に属して参戦。1180年(治承4)9月、石橋山で敗れた源頼朝(よりとも)の房総での再起を援(たす)けて以後、源平合戦、奥州合戦などに出陣、鎌倉幕府の成立に貢献し、下総守護職はじめ、肥前、薩摩(さつま)、美濃(みの)、陸奥(むつ)などに多くの所領を得て、千葉氏発展の基礎を固めた。

 素朴で誠実な人物で、つねに御家人(ごけにん)の筆頭として頼朝に重んじられ、毎年年頭の埦飯(おうばん)(将軍に奉る祝膳(しゅくぜん))などを勤めた。頼朝の死後、1199年(正治1)に梶原景時(かじわらのかげとき)弾劾の署名に加わり、翌年正月の埦飯を勤めたが、建仁(けんにん)元年3月24日、82歳で死去。千葉市大日寺(だいにちじ)に五輪塔がある。妻は武蔵(むさし)の豪族秩父(ちちぶ)重弘(しげひろ)の娘。男子6人あり、嫡子胤正(たねまさ)は千葉介として本宗家を継ぎ、師常(もろつね)は相馬(そうま)、胤盛(たねもり)は武石(たけいし)、胤信(たねのぶ)は大須賀(おおすが)、胤通(たねみち)は国分(こくぶ)、胤頼(たねより)は東(とう)氏の祖となり、それぞれに発展する。

[福田豊彦]

『福田豊彦著『千葉常胤』(1973・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「千葉常胤」の意味・わかりやすい解説

千葉常胤【ちばつねたね】

鎌倉幕府創立期の武将。千葉介・下総権介などと称する。父は平常重,母は常陸の豪族平政【もと】(まさもと)の女,妻は武蔵の豪族秩父重弘の娘。千葉荘相馬(そうま)御厨などに所領を有した。保元の乱では源義朝方に属した。1180年の石橋山(いしばしやま)の戦に敗れた源頼朝が安房に逃れるとこれに応じ,江戸湾岸の制圧に貢献したほか,東国経営の重要性を説いたという。以後常胤は御家人の筆頭として重視され,1184年には平家追討軍に参加,1189年の奥州征伐(合戦)では東海道軍の大将軍となった。鎌倉幕府が成立すると下総国守護に任じられ,子孫が代々同職を世襲した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「千葉常胤」の解説

千葉常胤
ちばつねたね

1118.5.24~1201.3.24

平安末~鎌倉初期の武将。桓武平氏良文流の千葉常重の子。下総国千葉荘に住み,千葉介・下総権介と称する。1135年(保延元)同国相馬御厨(みくりや)を相続,その支配をめぐり国守藤原親通や源義朝・平常澄と対立。その後,義朝に従い保元の乱にも参加するが,義朝の死後,佐竹氏に相馬御厨を奪われる。80年(治承4)石橋山の敗戦後,房総にのがれた源頼朝を迎え,国内の敵対勢力を制圧し,鎌倉入府を進言した。同年頼朝の佐竹討伐により相馬御厨の支配を回復。84年(元暦元)源範頼に従って平家追討のため西海に下り,89年(文治5)東海道大将軍として奥州合戦に出陣。のち下総国守護。頼朝に厚く信頼された幕府創業以来の功臣。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千葉常胤」の意味・わかりやすい解説

千葉常胤
ちばつねたね

[生]元永1(1118).5.24.
[没]建仁1(1201).3.24. 鎌倉
鎌倉幕府草創期の重臣。父は下総介平常重。母は平政幹 (まさもと) の娘。治承4 (1180) 年9月石橋山の戦いに敗れた源頼朝が関東の諸豪族を招いたのに応じ,同年9月 17日三百余騎の軍勢を率いて下総国府に参向。同年 10月頼朝が富士川の戦いで勝利を収め,平維盛を追って上洛しようとしたが,常胤らは鎌倉を本拠としてまず関東を平定することを進言した。のち常胤は戦功により下総守護となり,関東御家人の重鎮とされた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千葉常胤」の解説

千葉常胤 ちば-つねたね

1118-1201 平安後期-鎌倉時代の武将。
元永元年5月24日生まれ。千葉常重(つねしげ)の長男。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵に応じ,御家人の筆頭として重んじられ,鎌倉幕府の成立に貢献。その功により下総(しもうさ)守護に任じられ,下総,上総(かずさ),肥前,豊前(ぶぜん),陸奥(むつ)などに所領をあたえられた。建仁(けんにん)元年3月24日死去。84歳。通称は千葉介。

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旺文社日本史事典 三訂版 「千葉常胤」の解説

千葉常胤
ちばつねたね

1118〜1201
鎌倉初期の武将
平常重の子。下総国(千葉県)千葉を本拠とし,下総権介 (ごんのすけ) に任じられる。1180年源頼朝の挙兵ののち,一族を率いてこれに属し平氏討滅に尽力した。頼朝の信頼を得,下総守護となった。

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367日誕生日大事典 「千葉常胤」の解説

千葉常胤 (ちばつねたね)

生年月日:1118年5月24日
平安時代後期;鎌倉時代前期の御家人
1201年没

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世界大百科事典(旧版)内の千葉常胤の言及

【上総国】より

…旧国名。現在の千葉県の一部で,房総半島の北部を占める。
【古代】
 東海道に属する大国(《延喜式》)。古くは〈ふさ(総)〉といい,7世紀後半の令制国の建置にともなって,上総国と下総国が成立した。〈ふさ〉の地域は,《国造本紀》によれば,成務朝に須恵(すえ),馬来田(うまくた),上海上(かみつうなかみ),伊甚(いしみ),武社(むさ),菊麻(くくま),阿波の国造が,応神朝に印波,下海上(しもつうなかみ)の国造が定まったと伝える。…

【相馬御厨】より

…常重の寄進状によると伊勢神宮へ寄進するに際して,荒木田延明を口入神主とし,供祭物として田畠地利上分と土産のサケを奉納し,加地子職ならびに下司職は子孫の相伝とする旨を記している。常重の子が鎌倉幕府創設の功臣千葉常胤であるが,彼が地主職を伝領したのは35年(保延1)2月であった。翌年7月国司藤原親通は伊勢神宮領であることを認めず,公田と称し官物未進の罪で常重を捕らえた。…

※「千葉常胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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