平沢村(読み)ひらさわむら

日本歴史地名大系 「平沢村」の解説

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]三春町平沢

御祭おまつり村の西、三春城下の北西にあり、本宮もとみや(現本宮町)への道(県道本宮―三春線)に沿う。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「二町 一貫四〇〇文 上下ひらさわ」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「上下平沢」とみえ、上・下二村に分れていた。寺社明細書并縮図(三春町歴史民俗資料館蔵)によれば、蘆名氏の家臣本田義計が永正年中(一五〇四―二一)田村氏に属して平沢村を領したとする。また本田家系譜(平沢文書)によれば、本田義隆が田村隆顕に仕えて平沢村を与えられ、その子重義・義雄・義知とともに天正一三年の小浜おばま(現岩代町)攻め、翌一四年の二本松攻めに加わり、長男重義の子重直は平沢村肝煎となり、次男義雄の系が伊達政宗に仕え平沢氏を称したという。田母神氏旧記(田母神文書)には本田縫殿介と本田太郎左衛門がみえる。天正一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)では平沢村として、年貢一貫七〇〇文を納める。同一九年の平沢村検地帳(福島県史)の反別は田畑ともに三七町九反余、歩米三三七石余で、下平沢村分と思われる。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]蔵王町平沢

南は円田えんだ村、北東はなかうち川で小村崎こむらさき村、東は柴田郡村田むらた(現村田町)、北西は四方しほう峠を頂上とする丘陵地帯で柴田郡前川まえかわ(現川崎町)と接する。村内をやぶ川という小河川が北西から南東に流れる。北西部には猿鼻さるはな町という宿場があり、みや宿から円田村永野ながの宿を経て前川村川崎かわさき宿に至る笹谷ささや街道が通る。

応永九年(一四〇二)一一月三〇日の伊達家九代政宗の安堵状(国分文書)によれば、国分河内入道光信は「苅田郡平沢郷北方」を越後入道宣久と談合のうえ、旧例どおり所領とすることを認められている。この頃出羽国置賜おきたま長井ながい(現山形県)の両庄に進出した伊達氏は陸奥国側の拠点として当地などを支配下に繰入れたものと思われる。同知行は政宗の子氏宗により、同一四年三月一五日付で追認されている(「伊達氏宗安堵状」同文書)。文安四年(一四四七)四月二七日の沙弥道喜譲状(同文書)によれば、刈田平沢郷の内「おほいし在家」「おつと内在家」「平沢之たて」「田中在家」などが犬松に譲られている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]日高市南平沢みなみひらさわ北平沢きたひらさわあさひおか

原宿はらじゆく村の北にあり、北は入間いるま多和目たわめ(現坂戸市)・同郡葛貫つづらぬき(現毛呂山町)、南は新堀にいほり村。ほぼ中央を高麗こま川が北東流し、北境を東へ流れてきた宿谷しゆくや川が合流する。上野国方面から川越へ向かう道が北東へ、同道から分れて南下し相模国へ向かう道(鎌倉街道)がほぼ南北に通る。宝治二年(一二四八)二月二八日の高麗景実譲状(新渡戸文書)に「むさしのくにこまのこほりひんかしひらさわのうちきやふつかやしき」がみえ、娘のとよいや御前(景実女土用弥)に永代を限り譲与された。この所領は正慶二年(一三三三)三月二八日以前に尼蓮阿(土用弥)とその娘尼慈照から慈照の子曾我左衛門太郎入道光頼へ譲られ、光頼は「東平沢内田畠屋敷」などの安堵を申請し、同日高麗太郎次郎入道に事実確認のため下文等の備進などが命じられている(「某奉書」「曾我(高麗)系図」遠野南部文書)

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]秦野市平沢・しん町・鈴張すずはり町・みどり町・清水しみず

秦野盆地の南縁にあたり、北方に水無みずなし川、中央をむろ川が流れる。水無川対岸は曾屋そや村、東は今泉いまいずみ村、南は足柄上あしがらかみ境別所さかいべつしよ(現中井町)、西は渋沢しぶさわ村・堀山下ほりやました村・堀川ほりかわ村などに接する。北を東西に矢倉沢やぐらさわ往還、中ほどを大山道が南北に通る。

元弘三年(一三三三)一〇月五日の後醍醐天皇綸旨(県史二)に「相模国波多野庄内平沢村一分等」とみえ、鎌倉浄光明じようこうみよう寺領として安堵されており、応永二七年(一四二〇)一二月二一日の関東公方足利持氏御教書(県史三)および享徳二年(一四五三)一二月一五日の関東公方足利成氏御教書(同書)では同寺領のうちに「波多野庄内平沢村」がみえ、役夫工米以下の諸公事が免除されている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]紫波町平沢

北上川に流入する大坪おおつぼ川・平沢川中流域の沖積地に位置。東は桜町さくらまち村・北日詰きたひづめ村、西は上平沢村・稲藤いなふじ村、南は土館つちだて村・片寄かたよせ村、北は二日町ふつかまち新田。戦国期、斯波氏の家臣簗田氏の本拠地であったという。升沢ますざわにある志和しわ稲荷神社蔵の天正一六年(一五八八)五月二八日銘の棟札に、大旦那志和孫三郎詮直と並んで小旦那簗田中将少輔詮泰の名がみえる(紫波町史)。慶長一七年(一六一二)の南部利直寄進状(志和稲荷神社文書)によれば、平沢村のうち稲荷禰宜手作地二〇石が寄進されている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]大多喜町平沢

百鉾もふく村の南方、西畑にしはた川支流平沢川上流域の山間村。大坊だいぼうにある妙厳みようごん寺蔵の文明九年(一四七七)二月二七日銘の棟札に「上総国(ママ)生郡伊北庄平沢畑」とみえ、同寺は永徳二年(一三八二)に建立され、真言宗であったが、文明九年日調の化導により日賞が日蓮宗に改宗したとある。天正一一年(一五八三)西畑にしのはた平沢郷の同寺堂宇を日諦の本願で修造しているが、里見義頼の代官正木宮内大輔の小目代である君塚兵庫助が大檀那であった(棟札)。文禄三年(一五九四)三月九日の西之畑之内平沢之村坪入改帳(平沢区有文書)では永高六貫二九一文、ほかに山銭永八〇〇文、名請人一四、屋敷地一三筆で名請人一一。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]仁賀保町平沢 平沢

大沢おおさわ川河口に位置し東に冬師とうし山(はば山)を背負う。東北は両前寺りようぜんじ村・琴浦ことうら村、南はむろさわ村に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に仁賀保郷の一村として村名がある。「出羽国風土記」に「平沢村ハ往古由利仲八郎維平の住せし処なり(中略)応仁年中より平沢ハ仁賀保氏の所領」とあり、由利十二頭の仁賀保氏の旧領である。慶長七年(一六〇二)最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となり、高一八二石一斗二合であった(「仁賀保総高改」渡辺文書)。寛永元年(一六二四)仁賀保家の分知に際し内膳誠政(二千石家)領になった。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]福島市平石ひらいし

新田野目あらたのめ村・小倉おぐら村の東に位置し、北は永井川ながいかわ村、東は石名坂いしなざか村。山に囲まれ、中央を平田ひらた川が北流する。米沢に至る街道が南方の関谷せきや村から当村を経て小倉村に至る。天文七年(一五三八)の段銭古帳には信夫名倉しのぶなぐら方のうちに「うへさま御分」と注記して「ひらさハ」とみえ、段銭は一四貫八五〇文。伊達稙宗の蔵入地とされていた。同二二年の晴宗公采地下賜録では、牛坂左馬允に信夫庄平沢のうち黒沢屋敷・馬場屋敷・野たけ在家などが与えられている。なお当地の山発田やまほつた天神前てんじんまえ付近を地元では片原千軒かたはらせんげん・片原の宿と称し、古代東山道の駅跡とする伝えがある。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六三四石余。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]氷見市平沢

東は中田なかた村、北は吉岡よしおか村・だいら村、南は長坂ながさか村。平村・吉岡村とともに北山きたやま郷とも称され、石動山せきどうさん丘陵の南東斜面を階段状に開いて小規模な水田が数多くつくられ、集落は長坂村から吉岡村へ通じる道に沿って営まれ、東出ひがしで・西出の二つの垣内に分れる。正保郷帳では高一三六石余、田方一町二反・畑方七町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一四六石・免四ツ二歩、小物成は山役一七匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)。明暦二年(一六五六)の百姓一九人(「加納組高覚帳」円仏家文書)。寛保二年(一七四二)の百姓一三(「高免等書上帳」折橋家文書)

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]雄和町平沢

雄物川右岸、北は椿川つばきがわ村、南は石田いしだ村に接する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「一、六百七拾壱石九升弐合 平沢村」とあり、慶長六年(一六〇一)の秋田実季知行宛行状(秋田藩家蔵文書)に次のように記される。

<資料は省略されています>

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図は四一四石で、秋田氏時代に比べ大幅に減っている。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「平沢村 四十九軒。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]塩山市平沢

福生里ふくうり村の北、おも川の支流竹森たけもり川の上流に位置し、市域では北端にあたる。慶長古高帳に村名はみえず、寛文四年(一六六四)の徳美藩領知目録(寛文朱印留)の一九ヵ村のなかにも記されない。免割之覚(雨宮恵吾家文書)によれば、延宝三年(一六七五)には「竹森之内平沢」、元禄六年(一六九三)は「竹森村之内平沢村」として年貢が割付けられているように竹森村の枝郷であった。しかし同一六年の年貢割付状(同文書)では「平沢村」と記されるので、元禄一一年幕府領になってから一村として独立したと推定される。当時の高一四九石余。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]桑折町平沢

万正寺まんしようじ村の西に位置し、北は東流するうぶさわ川を境に南半田みなみはんだ村。西から南にかけては成田なりた村と接し、同村の境界の平沢山(四三二メートル)の麓から山腹にかけて集落が広がる。村名は当地にあった平沢へいたく寺に由来。承安元年(一一七一)八月二八日付の経筒銘に「伊達郡平沢寺」とみえ、大檀主は僧永筌、大勧進聖は僧長胤、檀那は糸井国数・藤原貞清・白井友包・藤井末遠の名がみえる。経筒は文政五年(一八二二)平沢山中腹、一本松の経塚とみられる積石遺跡から出土したとされ、その経筒銘の拓本(県指定重要文化財)を氏家家が所蔵する。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]あきる野市平沢・平沢東ひらさわひがし

秋留あきる台地先端部の北側、平井ひらい川下流筋にあり、南は二宮にのみや村。田園簿に村名がみえ、田三四石余・畑三二七石余で、幕府領二五四石余、旗本溝口領五〇石・同逸見領五〇石・同小宮山領七石、ほかに幕府領の永二〇〇文。元禄郷帳では高三七二石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本溝口領五〇石余・同小宮山領七石と幕府領三一〇石余。「風土記稿」では幕府領と小田原藩領(天明三年より文政一〇年まで)で、民家四七。安政二年(一八五五)の村柄書上帳(萩原家文書)では小宮山領八石余、幕府領三七二石余で、年貢米は八王子千人同心の扶持米として上納した。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]北上市黒沢尻町くろさわじりちよう 平沢

北上川左岸の山間部に位置し、北は更木さらき村・臥牛ふしうし村、南は黒岩くろいわ村・湯沢ゆざわ村。三方が山で東から西に走る沢が同川に向かって開けており、耕地が沢沿いに断続する。岩谷堂いわやどう(現江刺市)に行く道が更木村から黒岩村に向かう。小田島系図(平沢文書)によると永禄年間(一五五八―七〇)小田島雅楽助親光が当村を領し、平沢殿とよばれたという。小田島氏は和賀氏の重臣で、当地を本拠地とした。同一三年四月親光は室町幕府大番勤務中に小笠原流諸礼伝授を蜷川氏から受けた(同系図)。小田島氏の居館とされる小田島館跡や小城形式の居館跡堀之内ほりのうちなどがある。慶長一五年(一六一〇)の北松斎信愛宛の南部利直黒印状(盛岡北文書)に当村の高三〇八石余が載る。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]沼津市西浦平沢にしうらひらさわ

久連くづら村の西にある。北は海(内浦湾)に面し、西は立保たちぼ村。「増訂豆州志稿」に「コノ村渓ナク又平地ニ非ズ、海崖ニ少シノ砂浜アリ、平砂勾ひらさわナルベシ、勾ハ村ノ形半輪ノ如クナルヲ云」と記され、久連村境の沖合にかめ(周囲一二〇間)が浮ぶ。応安七年(一三七四)一一月一四日足利義満は鎌倉浄光明じようこうみよう慈光じこう院に三津みと庄内の「平沢・立保・葦保・久料四ケ村」を安堵している(「足利義満御判御教書」浄光明寺文書)

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]嵐山町平沢

千手堂せんじゆどう村の北の山地・丘陵部に位置し、東は菅谷すがや村、北は志賀しか村。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。中世には菅谷(須賀谷)から北上する鎌倉街道上道が通っていた。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)七月一三日条に「武蔵国平沢寺」とみえ、当地の平沢へいたく寺院主職に永寛が補任されている。長享二年(一四八八)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争は本格化し、顕定方にくみした太田資康は当地に張陣した。同年八月一七日、万里集九は「須賀谷之北平沢山」に入り、資康の軍営を訪れている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]色麻町平沢

鳴瀬なるせ川支流の長谷はぜ(長瀬川)の上流に位置し、船形ふながた山から北東に延びる二つの丘陵に挟まれ、長谷川に沿った狭い平地と北側の丘陵を背にして集落がある。南は小栗山こぐりやま村、東は高根たかね村、北は月崎つきざき(現小野田町)に接する。正保郷帳に田二四貫二〇一文・畑四貫七〇九文とあり、ほかに同所新田四貫四七三文がある。「安永風土記」によれば、田二八貫九九六文・畑五貫四七九文(うち茶畑一七三文)で、蔵入は九貫二五文、給所は二五貫四五〇文、人頭二七人(うち寺一・沽却禿三)、家数二五(うち水呑一)、男六三・女五五、馬二四とあり、てんおか山は小栗山村小野田おのだ本郷のうち鹿原かのはら(現小野田町)との入会山であった。また御林として仙ヶ窪・鳥屋ヶ森・鳥上・蜂ヶ森・清水ヶ上・中野岫・石ヶ森の七ヵ銘が記される。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]木島平村大字往郷おうごう

毛見けみ郷の北端に位置し、馬曲まぐせ川渓谷にのぞみ、馬曲村を北に、内山うちやま村を西に控えている。その初出は観応二年(一三五一)六月の市河経助あての足利直義御教書(市河文書)

<資料は省略されています>

とある。事件の内容は不明であるが、前々よりらちのあかない足利尊氏党の木島五郎二郎が、同直義党の毛見実綱の本栖もとす平沢ひらさわの地頭職を侵している問題を裁決しようとしていることがわかる。当時足利兄弟の争いが激化し、高井郡野辺宮原のべみやのはらの両党の衝突、直義の京都脱出、米子よなこ(現須坂市)の戦、そして同年一一月尊氏党の厳重な阻止にもかかわらず遂に鎌倉入りを果した時である。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]大田原市平沢

東流するほうき川左岸台地にある。北は薄葉うすば村、東は滝沢たきざわ村、対岸は稗田ひえだ(現矢板市)。奥州街道佐久山さくやま宿より当村を経て薄葉から塩原しおばら温泉(現那須郡塩原町)を結ぶ塩原湯しおばらゆ道が通る。天正一二年(一五八四)八月塩谷氏の軍勢が「薄葉・平沢」へ押寄せ、青田刈などの狼藉を度々行ったため、平沢の渡部主水は佐久山氏に加勢を依頼、佐久山資広が当地の砦に入ったという(那須記)。慶安郷帳に村名がみえ、田一三一石余・畑四五石余。近世初めより旗本福原領。寛文一二年(一六七二)の検地で田四五町九反余・畑一五町二反余となる(野崎郷土史)。天保年中(一八三〇―四四)の家数一〇(改革組合村)

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]会津若松市町北町まちきたまち中沢なかざわ

川東岸にあり、東は達磨だるま分、南は小黒川おぐろがわ分、北西は中地なかじ村。本村の南西一町一〇間余に端村新田しんでんがある。かつては現在地より二町四〇間余西の湯川端にあったが、度々の洪水により移転した。それまでの集落の前には広い沢があったため広沢ひろさわ村といったが、沢が埋まり平地になったため村名も変えたという(新編会津風土記)。広大な水田を中地堰や平沢堰が灌漑する。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡に村名があり、高三二九石余。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高五三五石余。化政期の家数は本村二三・新田二(新編会津風土記)

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]南牧村平沢

北に飯盛めしもり(一六四三メートル)を負い、南に傾斜し、西・南を甲斐国(現山梨県高根町)に境する。西側境の大門だいもん川は、八ヶ岳のあか岳に発し、佐久の諸川が日本海に注ぐのに対し、太平洋に流れ込む。甲州脇往還に沿った佐久地方最南端の集落。

建武二年(一三三五)の大徳寺文書の伴野庄年貢員数報告に「平沢村 八貫貫文」とある地は、現字戸倉とくらの辺りという。戸倉は、「延喜式」記載の御牧、甲斐国の柏前牧の最北部に位置するとされている。天正年間(一五七三―九二)武田氏の駅伝のため戸倉の集落を移し、現在地に住まわせたという。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]筑波町平沢

平沢山の南麓に所在。現石岡市より筑波へ通じる古い道筋に沿い、東方の不動ふどう峠より発する沢が村の南を西南に流れる。村域には佐都さどヶ岩屋・開山かいざん岩屋などの円墳八基からなる平沢古墳群、土師器・須恵器の出土をみるハザマ遺跡や平沢西遺跡がある。

文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「平沢」とあり佐竹義宣蔵入地で、村高二五一・三六石。慶長七年(一六〇二)の佐竹氏国替により天領。元和二年(一六一六)および同六年の信濃貞心寺文書によれば山口やまぐち村とともに信濃長沼藩佐久間氏領(→山口村

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]魚津市平沢

片貝かたかい谷の片貝川左岸にあり、片貝三ヵ山に含まれる。対岸は山女あけび村および同村と黒谷くろだに村の寄合出村の東蔵とうぞう村。寛永一八年(一六四一)松倉まつくら村領から木地師が片貝三ヵ山に入込み、当村の木地平きじだいらに居住したが、享和(一八〇一―〇四)頃に棚山たなやま(現朝日町)に移住し、平沢姓を名乗るようになる。なお文化七年(一八一〇)の新川郡郷庄附村名書上申帳(加越能文庫)には、垣内として木地谷きじやがみえる。正保郷帳では高二一石余、畑方一町四反余。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]足助町平沢

矢作川の支流阿摺あすり川の上流に沿う。東は明川あすがわ村、南は五反田ごたんだ村・千田せんだ村、西は小田こだ村、北は現あさひ町に接する。阿摺川がほぼ中央を西に向かって流れ、伊那いな街道が左岸の山麓を通る。現国道一五三号は右岸の山麓にある。集落は伊那街道と現国道沿いの山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。同一五年成瀬家断絶によって幕府直轄地。元禄一一年(一六九八)旗本松平忠成知行地となるが、同一四年忠成の知行地は美濃国へ移される。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]巻町平沢

角田かくだ山南麓にあり、山がちの村である。南西は福井ふくい村、北は竹野町たけのまち村に接する。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高三四石七斗余とある。寛永一一年(一六三四)与板藩領となり、高三四石七斗余とある(「長岡懐旧雑記」長岡の歴史)。与板藩朱印状で与板藩領として村名がみえる。文政三年(一八二〇)の村明細帳(新潟大学蔵)によれば村高は四三石二斗余、本途は三四石七斗余でうち七斗余は百姓持山の山高である。反別は田畑合せ三町四反五畝余で、慶安二年(一六四九)検地を受けている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]静岡市平沢・谷田やだ

有度山うどさん丘陵の北西部、吉田よしだ川の源流部に位置し、北は谷田村。周囲を山林に囲まれている。戦国期は入江いりえ庄のうち。当地の平沢へいたく(現真言宗智山派)に宛てた弘治二年(一五五六)一〇月二四日の今川義元判物(平沢寺文書)および永禄三年(一五六〇)六月二九日の今川氏真判物(写、判物証文写)に「平沢内観音堂役免」とみえ、平沢寺が観音堂造営にあたり当地の免田を安堵されている。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]柿崎町平沢

東はまき村と接し、北西には標高二八七・四メートルの山を隔てて小萱おがや村・栃窪とちくぼ村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分平沢村 下」とみえ、本納一二石八斗・縄高二〇石三斗四合、家五軒・一三人とある。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高五八石七斗余。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]岩瀬町平沢

たか峰の山麓に位置し、南は福崎ふくざき村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には堤八、溜池七、四壁山五、竹藪一二があり、売物は薪・木綿。文化期(一八〇四―一八)の戸数一九・人数七八、馬九。弘化三年(一八四六)の笠間領内人別調(来栖家文書)によれば戸数二七・人数一五七、馬二四。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]下山村田平沢たいらざわ

ともえ川の右岸に沿い、北から東は立岩たていわ村、南は栃立とちだち村、西は平瀬ひらせ村に接する。中央を支流田平沢川が流れる。集落は南部の小起伏面上山麓に点在。県道東大見―岡崎線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]大網白里町小中こなか

宮崎みやざき村の南に位置する。元禄郷帳に小中村枝郷の肩書つきで村名がみえ、高二八七石余。寛政一二年(一八〇〇)の上総国捉飼場五郷組合帳では小食土やさしど(現千葉市緑区)五郷の一つとして当村がみえ、旗本原田領二〇〇石。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)では旗本原田・千本領。

平沢村
ひらさわむら

[現在地名]八尾町平沢

鼠谷よめだに村の北西方、仁歩にんぶ川左岸にある。正保郷帳に村名がみえ、村高は正間まさま村と合せて一五六石余、田方四町六反余・畑方五町七反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一五六石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一二二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報