河辺郡(読み)かわべぐん

日本歴史地名大系 「河辺郡」の解説

河辺郡
かわべぐん

面積:四四七・一〇平方キロ
河辺町・雄和ゆうわ

東に仙北せんぼく郡、西に秋田市、北に北秋田郡、南に由利郡が隣接する。地形的には出羽山地の中央にあり、東から河辺郡南部を貫く雄物川と、北部山地から南下する岩見いわみ川の沿岸にやや広い平野が開ける。

郡名の初見は「続日本後紀」承和一〇年(八四三)一二月一日条で、「十二月乙卯朔、出羽国河辺郡百姓外従五位下勲八等奈良己智豊継等五人、賜姓大滝宿禰、其先百済国人也」とある。「続日本紀」宝亀一一年(七八〇)八月二三日条、「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月二二日条に、「河辺」「河辺府」の名があるが、郡名とは関係がないといわれる(秋田県史)。「延喜式」民部に河辺の郡名があり、「和名抄」には「河辺かわのへ郡」とあり、属する郷として「川合・中山・邑知・田郡・大泉・稲城・芹泉・余戸」の名があげられている。

室町時代後期、岩見川下流右岸にある豊島としま城に黒川氏、次いで畠山氏が拠るようになると、その支配地域を豊島郡とよんだ(秋田県史)。近世初期にもこの郡名が用いられ、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には豊島郡、村数四三ヵ村とある。寛文四年(一六六四)四月、秋田藩領内六郡の正式呼称が検討され、「戸島郡」を河辺郡と改めた(羽陰史略)。元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領絵図には「川辺郡高壱万六千五百弐拾石壱斗九升六合 五拾三ケ村」とある。

〔原始・古代〕

郡内には現雄和町に六ヵ所、現河辺町に五ヵ所の縄文遺跡が発見されている。遺跡は縄文中期以降のもので、土器片のほか、石斧・石匙・石鏃などを含み、河辺町山根やまね堂平どうひら・同赤平あかひら水口沢みなくちざわ・同松淵まつぶち風無台かぜなしだいの三ヵ所からは石棒も出土している。遺跡の位置はいずれも岩見川・雄物川に近い山麓か台地周縁部に限られ、雄和町椿川つばきがわ鹿野戸かのと鹿野戸遺跡からは住居跡が発見されている。

「続日本後紀」承和一〇年一二月一日条によれば、百済人を先祖にもつ河辺郡の百姓五人に、大滝宿禰の姓を与えたとある。北方開拓の過程で渡来人を含む開拓移民が行われ、河辺郡も設けられたものであろう。百姓五人の賜姓も開拓の功績と考えられる。元慶二年(八七八)秋田城下の夷俘が反乱を起こした時、添河そえかわ覇別はわけ助川すけかわ三村が官側につき、反乱平定に貢献している(三代実録)。三村のうち助川村は河辺郡岩見川流域に比定され(大日本地名辞書)、太平川流域だとする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報