刈田郡(読み)かつたぐん

日本歴史地名大系 「刈田郡」の解説

刈田郡
かつたぐん

面積:四一五・九三平方キロ
しち宿しゆく町・蔵王ざおう

県南西部に位置し、北・東は柴田郡川崎かわさき町・村田むらた町・大河原おおがわら町、南は福島市、西は山形県上山かみのやま市・東置賜ひがしおきたま高畠たかはた町と接する。郡北部が蔵王町、西部が七ヶ宿町で、南東部を旧郡域の白石しろいし市が占める。郡北西部は蔵王連峰を形成する刈田岳(一七五八メートル)屏風びようぶ(一八一七・一メートル)不忘ふぼう(一七〇五・三メートル)などが連なり、南西部も標高一〇〇〇―一三〇〇メートル級の舟引ふなびき山・二ッ森ふたっもり山・番城ばんじよう山・りゆうヶ岳が続く。その鞍部の金山かねやま峠・二井宿にいじゆく峠は奥羽両国を結ぶ交通路として中世より利用された。これらの山嶺などを水源とするよこ川・児捨こすて川・まつ川は、七ヶ宿町西端に発して東流する白石川に合流し、蔵王町南東部で柴田郡に入る。いずれも水量は豊富でなく舟運には適さず、また流域に形成された平坦地は乏しい。

「続日本紀」養老五年(七二一)一〇月一四日条に「令陸奥国柴田郡二郷苅田郡」とある。「延喜式」民部上の古訓はカリタとし、「和名抄」は東急本郡部で「葛太」と訓ずる。なお同書郡郷部に「那田郡」「那田郷」とあるのはいずれも刈田の誤りとされる。

〔原始〕

遺跡は蔵王連峰から東方に延びる丘陵と、阿武隈高地の西方に延びる低い丘陵、および白石川流域とその支流松川・児捨川・さい川・横川などの流域段丘上に分布し、白石市を含め県内ではもっとも多い遺跡数が登録されている。県内旧石器遺物の検証は旧刈田郡域から始まったといってよい。七ヶ宿町の長老沼北ちようろうぬまきた遺跡や、白石市大鷹沢の小菅おおたかさわのこすげ戸谷沢とやざわ遺跡から掻器・尖頭器・局部磨製石斧の発見があった。その後東北自動車道の建設に伴う調査により蔵王町持長地もつちようじ二屋敷にやしき明神裏みようじんうら各遺跡で資料が追加された。縄文時代の遺跡も多く、早期の明神裏III式標準遺跡の明神裏遺跡、白石市福岡深谷の松田ふくおかふかやのまつだ遺跡などがあり、これらを含め白石市蔵王開拓ざおうかいたくD・保原平ほばらだいら上皿久保かみさらくぼ白萩しらはぎB各遺跡のように概して白石川左岸の高地に立地する。前期・中期では七ヶ宿町のダム建設に伴う調査で、縄文時代の集落、多数の貯蔵用の土壙、および平安時代の集落まで明らかになった小梁川こやながわ遺跡が発掘された。中期末から後期初頭の二屋敷遺跡では、白石市福岡蔵本の菅生田ふくおかくらもとのすごうだ遺跡と同じく多数の竪穴住居跡が発見されている。後期から晩期になると児捨川下流や蔵王町の松川右岸台地の曲竹の山田沢まがたけのやまだざわ鍛冶屋敷かじやしき遺跡など刈田郡一円に分布する。弥生時代の遺跡は、蔵王町やぶ川流域の台地を中心に福岡深谷に密集する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報