加美郡(読み)かみぐん

日本歴史地名大系 「加美郡」の解説

加美郡
かみぐん

面積:五六九・〇七平方キロ
色麻しかま町・中新田なかにいだ町・宮崎みやざき町・小野田おのだ

県西部に位置し、西は奥羽山脈の山なみで山形県尾花沢おばなざわ市に接し、最高峰は郡域南端の船形ふながた(一五〇〇・二メートル)で、七〇〇―一〇〇〇メートル級の山が連なる。北の玉造たまつくり郡境の玉造丘陵、南の黒川郡境の加美丘陵は、いずれも奥羽山脈の支脈で、郡域は広いが全体的に山がちである。奥羽山脈からの冷たい西風が多くの雪をもたらしている。これらの山々の水を集めた川・大滝おおたき川・保野ほの川・はな川などが鳴瀬なるせ川に合流し、東部に平地を形成し、大崎おおさき平野の一部をなしている。東は古川市と志田郡三本木さんぼんぎ町に接する。北東部は玉造郡岩出山いわでやま町、北は同郡鳴子なるこ町、南は黒川郡大衡おおひら村・大和たいわ町に接する。郡の中央部を東西に国道三四七号が横断し、古川市と尾花沢市を結ぶ。南北の交通は岩出山町から中新田町色麻町・大和町を結ぶ道が主要なルートで、この二本の道の交点が中新田町である。

「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条に「賀美郡」とみえる。古代の色麻郡は現在の色麻町辺りに比定され、現在の加美郡域は古代には賀美・色麻の二郡から成立っていたと思われる。中世になると甘美郡・寒郡・神郡などとも記された。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は調査の行届いている宮崎町の玉造丘陵に濃厚に分布し、縄文早期の貝殻刺文土器群から縄文施文土器と各時期にわたる遺跡があり、遺物も多数発見されている。弥生時代の遺跡も黒川郡と違って多数発見されている。とくに宮崎町米泉小池裏こめいずみこいけうら遺跡から磨製石剣と有角石斧の出土、上の原下うえのはらしも遺跡から棒状蛤刃石斧・片刃石斧各一点、米泉三吉平さんきちだいら遺跡から桝形囲式期の籾痕土器が発見され、早くからの稲作の開始を示している。古墳は玉造丘陵の南に延びる丘陵および鳴瀬川支流域に点在する。中新田町上狼塚かみおいぬつか熊野堂くまのどう遺跡から長軸約三六メートルの方形周溝墓が発見され、大黒森だいこくもり古墳・ヘッピリ古墳・黒森くろもり古墳があり、続いて宮崎町米泉古墳群・から念仏山ねんぶつやま孫沢まごさわ愛宕山あたごやま鳥屋とりやさき小泉こいずみ弥平やへいさき古墳と東西に展開する。なかでも、夷森えびすもり古墳(大塚森)は径四八メートルの円墳、行人塚ぎようにんづか古墳は円筒埴輪をもち、古式土師器の出土もある中期古墳である。色麻町は鳴瀬川支流域保野川南岸の蝦夷塚えぞづか古墳・大塚おおつか古墳があり、花川の北岸には中期の埴輪をもつ御山おやま古墳、主軸長五二メートルの前方後円墳の念南寺ねやじ古墳があり、鳴瀬川南岸には東原塚ひがしはらづか東原囲ひがしはらかこい古墳が点在する。とくに、後期群集墳を代表する百数十基の色麻古墳群(上郷古墳群)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報