平原村(読み)ひらばるむら

日本歴史地名大系 「平原村」の解説

平原村
ひらばるむら

[現在地名]浜玉町大字平原

玉島たましま川の支流(平原川)は村内で今坂いまさこ草場くさば川)真手野まての川を合わせる。これらの川は背振せふり山地の後河内うしろかわち山・前河内山・椿つばき山等の山嶺より発し、傾斜の緩やかな山麓を下り、今坂・中原なかばる古瀬こせ飯塚いいづか戸房とふさ座主ざす保坂ほざか・草場・柳瀬やなぎせ等の集落をつくる。

この村は、北方の小川の出口以外は、急坂を有する峠によって他村とさえぎられており、平原峠・蝦蟇わくど峠などは古来から知られた峠である。平原を「和名抄」にいう庇羅郷に比定する説があり、また大宰府から松浦郡衙(→松浦郡への官道は、大村おおむら駅(現浜玉町五反田ごたんだ)から平原村の座主を経て、東山田ひがしやまだへ通じていたという。

平安時代、松浦庄が京都の最勝光さいしようこう院領となり、平原村の座主に真言密教の修験場として殿原でんげん寺が建立された。そのとき用材が切り出された地で、切株に挿した枝から再び芽を出したので、戸房の名が生まれたと伝えられる。

平原村
へばらむら

[現在地名]中里村平原、甘楽かんら下仁田しもにた町平原

北部は東から赤久縄あかぐな(一五二二・三メートル)杖植つえたて(一五二一メートル)日向ひなた(一四四七・五メートル)日影ひかげ(一四〇六・六メートル)などがそびえ、南境を東流する神流かんな川に沿って十石じつこく街道が通る。東は船子ふなこ(現万場町)神原かがはら村など、北は多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)青倉あおくら(現下仁田町)などに接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳によれば御巣鷹山が三ヵ所あり、高四八石余はすべて畑方。

平原村
へいばらむら

[現在地名]下市町大字平原

栃原とちわら岳の南麓に位置する。慶長郷帳には「平野田村」、元和郷帳では「平野村」と記す。現地では「へえばら」という。建武元年(一三三四)二月の坊領証文紛失状(吉水神社文書)に「部原郷内水田参段」とみえ、永禄九年(一六九六)二月の田地売券(楠山家文書)には「ヘハラ」と記す。御領ごりよう郷のうち。慶長郷帳では村高一九七・七一石、幕府領。のち延宝検地により村高は二二七・八〇六石となった。

延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡平原村検地帳(杉本家文書)には、楮畑・漆畑・茶畑の記事がある。ほかに平原村・栃原村、唐戸からと(現西吉野村)立会の草山二ヵ所一四町一反三畝一〇歩、小松柴山(御坊谷山)、栢九一本などが記されている。

平原村
ひらはらむら

[現在地名]西尾市平原町

市の東に位置し、須美すみ山の北麓である前山まえやまの裾の台地上の小集落。北へ土地が低まり、北西限は須美川の流れ。村名の起源は、「往昔、山の平らな所に人々が住んだので平原と呼ぶ」という(室場村外三ケ村組合歴史)。標高二〇―三〇メートルの山地東斜面に、弥生後期の糟塚かすづか遺跡がある。近世の平原村は、寛永(一六二四―四四)頃板倉内膳正領、宝永二年(一七〇五)幕府領、再び旗本岡部氏領から幕府領へ、天保二年(一八三一)西尾藩領となり明治に至る。

平原村
ひらはらむら

[現在地名]小諸市平原

小諸城下から追分おいわけ宿(現北佐久郡軽井沢町追分)に通じる北国脇往還沿いにあり、柏木かしわぎ村・八満はちまん村・御影新田みかげしんでん塩野しおの村・馬瀬口ませぐち(ともに現北佐久郡御代田町)などの各村に接する。

浅間山(二五四二メートル)南麓の高燥な地にあり、下原しもはら地籍の複合遺跡をはじめとして縄文期から古墳時代に及ぶ遺跡や出土品が多い。

また古代の官牧塩野牧の縁辺部であり、「和名抄」に載る「小沼郷」に比定されている地域の一部であって、その開発の古さがうかがわれる。

古代から中世初頭にかけて、佐久に大きな勢力を持ったのは牧場経営から出た滋野氏一族とその与党で、その中に根井・小室氏らとともに平原氏もあった。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]植木町平原

東に金比羅こんぴら山・屏風岩びようぶいわ山があり、西は鈴麦すずむぎ村、北は城越しろんこし山・いずみ山を境に霜野しもの(現鹿央町)、南は田原たばる船底ふなそこ両村に接する。南西部をなめり川が流れ、玉名たまな木葉このは(現玉東町)から鈴麦村・当村を経てうち村に達する砥石越といしごえ(木葉町道)が通る。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一一町四反七畝・畠四〇町四反五畝、分米一九一石八斗余、名請人延数は二八人。

平原村
ひらばらむら

[現在地名]三隅町東平原ひがしひらばら

水来みずき(四一二・八メートル)平原ひらばらヶ嶽(三七九メートル)の北側に位置し、南は蘆谷あしだに村、北は折居おりい村。標高一〇〇メートル前後の小丘が起伏する台地状を呈する。折居川に合流する地蔵じぞう川が東流し、西を三隅川の支流石田いしだ川が流れる。山陰道は折居村から当村中央を通り石田を経て岡崎おかさき村へ至る。史料には東平原村ともみえ、古くは室谷むろだにとともに周布すふ郷に属したともされることから周布平原すふひらばらともよばれた。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高一四八石余、年貢高は田方六四石余・畑方一二石余。なお慶応四年(一八六八)の郷鑑取調書上控(浜田市立図書館蔵)によれば、慶長八年(一六〇三)には田方五町二反余・畑方六町八反余で、高一四八石余。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]院内町平原

恵良えら川の支流あまり川の中流域に沿って続く谷間の山間部に位置し、南は滝貞たきさだ村・小平こびら村、北は上納持かみのうじ村。番木ばんぎ村・仏木ほとぎ(現安心院町)に通じる仏木越道が通り、当村側の登り斜面に数百メートルにわたって石畳が残り、巡見じゆんけん道ともよばれる。小倉藩元和人畜改帳では高二〇八石余、家数一二・人数四四(うち百姓八・名子四)、牛三・馬一。百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には大門組に所属し、人数九五(「人畜帳」庄家文書)

平原村
ひらばるむら

[現在地名]富合町平原

雁回がんかい山の北西麓にあり、東は尾根一つを隔てて木原きはら村、西はしん村・南田尻みなみたのしり村、北は榎津えのきづ村、南は山林で宇土うと岩熊いわくま(現宇土市)と接する。木原古墳群の一部があり、古墳時代から集落が形成されていたと思われる。字本庄ほんじよう(生)の平原窯跡から須恵器・瓦・瓦器片などが出土している。中世は守富もりどみ庄に属し、室町後期の甲佐社神田注文(阿蘇家文書)にある「小一祝分 三町居合田」のうち「一丁大坪」とは、当村の字大坪おおつぼかもしれない。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]南区井尻いじり二―四丁目・横手南町よこてみなみまち、博多区諸岡もろおか三―四丁目

横手よこて村の東にある同村枝郷。横手原ともいう(続風土記附録)。永正一二年(一五一五)九月の省伯等連署状(省伯和尚認之案文/大日本史料九―五)によると、博多承天じようてん寺領となっていた野間のま高宮たかみやと「原村」はもともと筥崎宮領であったが、鎌倉時代中期頃に承天寺檀越謝国明が銭六〇〇緡(六〇〇貫か)で買取り、同寺に寄進した地という。「原」は平原の誤りである。天文二一年(一五五二)九月一八日に大内義長によって承天寺領の野間・高宮・平原の三ヵ所などが安堵された(「大内義長安堵状」承天寺文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)

平原村
ひらはらむら

[現在地名]八雲村平原

西岩坂にしいわさか村・熊野くまの村の西に位置する。中世は石坂いわさか郷に属したとみられる。天文一一年(一五四二)大内氏が尼子氏を攻めた際、吉川経興は平原で越年している(「二宮俊実覚書」吉川家文書)。推定永禄一二年(一五六九)五月六日の井上就重書状(閥閲録)によると、毛利家臣野村士悦は給地の替地として平原を与えられている。天正一三年(一五八五)三月二一日の毛利輝元書状(同書)によると、平原のうち粟屋元次給分に福間元明が居屋敷を構え、そのため粟屋氏と地替証文を取交わしたが、輝元はこれを承認している。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう谷口たにぐち

元禄絵図には古里ふるさと村と重橋じゆうばし村の間に平原村があり、天保郷帳にも平原村と記されるが、正保絵図では谷口村であり、唐津藩の藩政期の他の史料も同様。この経緯については不明。小字名に高尾たかお広田ひろた・ユキゾノ・立山たちやま下平原しもひらばるううブケ・杖田つえた大尾ううお中石坂なかいしざかがある。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]長洲町清源寺せいげんじ

西部を菜切なきり川が南流し、北部から西部を宮崎みやざき川が流れる。東・南は清源寺村、北は塩屋しおや村、西は高浜たかはま村・長洲村と接する。近世は荒尾手永に属する。元禄国絵図に「原賀村之内平原村」とみえ腹赤はらか村からの分村を示すが、明治の「郡村誌」には清源寺村からの分村とする。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によると惣畝数二九町一反九畝余、うち鳫骨六反九歩・内浜三畝一二歩が新地で他はすべて諸開である。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]碓井町上臼井かみうすい

東は千手せんず川を隔てて上臼井村、西は長谷はせ山を境として穂波ほなみ内山田うちやまだ(現桂川町)、南は同郡九郎原くろうばる(現嘉穂町)。寛文五年(一六六五)に上臼井村から分村(碓井町誌)

平原村
ひらばるむら

[現在地名]荻町木下きのした

藤渡ふじわたり川の北岸に位置する標高六三〇メートル前後の集落。北は豊後国滝水たきみず村、西隣は肥後国阿蘇郡滝水村(現熊本県波野村)。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。弘化物成帳では葎原組のうち、村位は下、免三ツ五分、田二斗余(三畝余)・畑一一五石余(二五町五反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑一石余(二三町一反余)がある。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]泗水町富納とみのう

富納村の南、合志こうし川の左岸に立地する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、名請人一〇、居屋敷数八、屋敷持四―五、田五反五畝余、畠・屋敷七町九反九畝余、分米六二石余。同一三年の検地帳では名請人二二、屋敷数四、屋敷持四、人数八、牛一、田七反七畝余・畠一一町九反三畝余、分米は一〇一石四斗余。「国志草稿」に「平原村 百石ヨ」とあり、竹迫手永に属した。「肥集録」では富納村の小村、「国誌」に「高百一石余、当村旧ト富納村ノ内也」とある。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]庄内町北大津留きたおおつる 平原など

柚木ゆのき村の北にあり小挟間おばさま川右岸に位置する。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷橋爪組に属した(府内藩記録)正保郷帳に村名がみえ田高六五石余・畑高二一石余、阿南あなん庄に所属。

平原村
ひらばるむら

[現在地名]竹田市門田もんでん

門田川流域に位置する。正保郷帳では倉木くらき郷に属し、田方五三石余・畑方五二石余。弘化物成帳では門田組のうち、村位は中、免六ツ七分、田四四石余(四町二反余)・畑五三石余(八町八反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑七斗余(一町二反余)がある。

平原村
へばらむら

[現在地名]下仁田町平原、多野たの中里なかざと村平原

明治二二年(一八八九)の町村制施行に伴い、字土屋つちやほか二一字が北甘楽郡に編入、合併して青倉あおくら村となり、残りの地域は南甘楽郡に編入し合併して中里村となる(多野郡中里村の→平原村

平原村
ひらばるむら

[現在地名]前原市有田ありた

有田村の東に位置する。寛文四年(一六六四)の肥前唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。領主の変遷は神在かみあり村と同じ。元禄国絵図では高二一〇石余。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高二一一石余、うち安永四年(一七七五)から文化元年(一八〇四)までの出高九斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報