松浦郡(読み)まつらぐん

日本歴史地名大系 「松浦郡」の解説

松浦郡
まつらぐん

肥前国の北部および西部、日本列島の最西端に位置する郡。北松浦きたまつうら半島および平戸島・生月いきつき島・おお島・たか島・福江ふくえ島、五島列島の島嶼からなり、南部は彼杵そのき郡、東部は杵島きしま郡・小城おぎ郡と接する。郡域は現県域の北松浦郡南松浦郡と佐世保市・松浦まつうら市・平戸市および福江市にわたるが、また佐賀県西部の東松浦郡唐津からつ市・西松浦郡伊万里いまり市にも及ぶ範囲であった(天保郷帳による)。郡名に異記はないが、末羅・末盧などの表記がある。訓は「万葉集」に麻都良・満通良、「和名抄」東急本に万豆良とあり、中世に「まつら」(正和四年六月二日「鎮西裁許状案」青方文書)、江戸時代初期の日本図(河盛家蔵)にマツラ、「寛政重修諸家譜」などに「まつら」の訓が記される。ただし古くからマツウラともよむが(建久七年七月一二日「前右大将源頼朝家政所下文案」青方文書)、それが公称となるのははるか後代であろう。

〔古代〕

縄文時代より捕鯨をはじめ漁労を主体とする暮し向きがうかがえるとともに(佐世保市下本山岩陰遺跡、田平町つぐめのはな遺跡、小値賀町野首遺跡)、稲作は縄文時代晩期から弥生時代前期までには行われていた(田平町里田原遺跡、佐世保市四反田遺跡)。松浦市の石棺墓・甕棺墓が検出されたかや遺跡では副葬品として後漢鏡やガラス小玉が出ており、有力層の存在を想定しうる。平戸島の馬込まごめ遺跡で発見された弥生時代前期後半の竪穴住居跡朝鮮半島の南部に起源をもつものとされ、宇久うく島の松原まつばら遺跡の支石墓では朝鮮半島南部の無文土器の影響が強い小型壺形土器が発見された。中通なかどおり島の有川ありかわ町のかしら島白浜しましらはま遺跡では韓国の赤色顔料塗彩土器、福江市の大板部おおいたべ洞穴ではソウル市の岩寺洞遺跡の櫛文土器と似た縄文前期の砲弾形の深鉢形土器が出ており、いずれも朝鮮半島との交流を明らかに示している。「翰苑」所引の「後漢書」東夷伝によれば、一〇七年「倭面土国王」の帥升が生口一六〇人を献上しているが、面土はイト(怡土郡)とよむほか、メンドまたはマツラとよむ説がある。「三国志」魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に、邪馬台国に向かう里程を記すなかで一支国(壱岐国)より「一海を渡ること千余里、末盧国に至る」とあり、南東に陸行すること五〇〇里で伊都国に至るという。また四千余戸があって山海に沿って居住し、好んで魚・鰒をとるが、深浅なく潜水する漁法であると記される。三世紀のようすを示すこの国は、後代の肥前国松浦郡に通じるものであり、現唐津市を中心に松浦市に及ぶという。

松浦郡
まつらぐん

松浦郡は九州の西北部の玄界灘に面し、現長崎県・佐賀県にまたがる広域で、地殻変動のため沈下して形成された半島・岬や多くの島嶼よりなる。

〔古代の松浦〕

三世紀の日本について記す「魏志倭人伝」に「又渡一海千余里、至末盧国、有四千余戸、浜山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之」とある。「国造本紀」には「末羅国造志賀高穴穂朝御世穂積臣同祖大口足尼孫矢田稲吉定賜国造」と、国郡制定以前の末羅国について述べる。

「古事記」仲哀記は神功皇后の新羅出兵に触れているが、そのなかで、

<資料は省略されています>

と述べる。すなわち松浦にかかわる地名としては末盧まつろ国を初見とし、末羅まつら国・末羅県などと記されている。「古事記」のできた八世紀頃までの「まつら」は、松浦川流域の狭い地域と考えられる。なお「万葉集」には「松浦川に遊ぶ序」に「松浦の県」とみえる。

古代の松浦郡については「肥前風土記」に、

<資料は省略されています>

とある。神功皇后が玉島の小川で釣をした時「新羅を討ちて凱旋することができるよう鮎よわが釣緡つりを呑め」といったところ鮎がかかった。皇后が「あな希見しき物」といったことから、この地を希めずら国といい、今松浦まつらに訛ったという伝承である。同様な話は「日本書紀」にもあり、また先引の「古事記」にもかかわる。「肥前風土記」はさらに地名として「鏡渡・褶振峯・賀周里・逢鹿駅・登望駅・大家嶋・値嘉郷」をあげる。郡衙の位置は「肥前風土記」逸文の揺岑ひれふりのみねの項に「松浦県之東三十里、有揺岑」とあり、現在の唐津市の柏崎かしわざき付近と推定されるが、定説とはなっていない。

「肥前風土記」は郡内の郷を一一とし、郷名は値嘉郷のみを記す。「和名抄」には松浦郡の訓を刊本に「万豆良」と記し、郷名は庇羅・大沼・値嘉・生佐・久利の五郷をあげる。このうち庇羅郷は現長崎県の平戸ひらど島、値嘉郷は長崎県の五島ごとう列島の地に比定されるので、この時には松浦郡は広域となっていたといえる。ただし「肥前風土記」「和名抄」ともに現伊万里市・西松浦郡域の記述を欠く。「続日本紀」天平一二年(七四〇)一一月三日条には値嘉島の名を記すが、「三代実録」貞観一八年(八七六)三月九日条には庇羅郷・値嘉郷をはずし、値嘉島として島司を置いたことが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松浦郡の言及

【島】より

…とくに瀬戸内,伊勢,九州西部などの多島海域は,水運・水産の要地として繁栄をとげる場合があり,そこには,海に開かれて広域的な活動を行う島社会が,本土とは異なる形で存在していたのである。例えば,古代より瀬戸内海航路を航行する〈松浦船〉の名をもって知られた肥前国松浦(まつら)郡には,中世,〈嶋々浦々船党〉〈海夫〉などといわれた多くの海民が居住していた。郡内の五島列島では,塩屋を運営しつつ,所持する船の一部を賃船として貸し付けていた人物や,北条氏に仕える肥後国の梶取を寄宿させ,多額の塩魚を買い付けさせた人物などを確認することができる(《青方文書》)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」