岩屋村(読み)いわやむら

日本歴史地名大系 「岩屋村」の解説

岩屋村
いわやむら

[現在地名]伊丹市岩屋小阪田おさかでん

猪名いな川の左岸、森本もりもと村・酒井さかい村の東に位置する。東は豊島てしま勝部かつべ村・原田はらだ村・走井はしりい(現大阪府豊中市)、北は同郡箕輪みのわ(現同上)川辺かわべ南条の条里が敷かれ、さんつぼかみ下の四しものしつぼろくつぼ七八しちはちつぼつぼなどの小字があった。

天正一三年(一五八五)九月一〇日の羽柴秀吉領知判物(妙光寺文書)に「河辺郡之内岩屋村」とみえ、当村のうち一八〇石などが妙光みようこう(現大阪市中央区)に三木郡の替地として与えられている。文禄三年(一五九四)九月一六日に船越五郎左衛門が検地した(「村明細帳」吉岡家文書)。慶長国絵図によると高三八〇石余、正保郷帳ではほかに新田高一三石余。新田は寛永八年(一六三一)に荒起開発したもので諸役勤高からは除かれていた(前掲村明細帳)

岩屋村
いわやむら

[現在地名]野田川町字岩屋

幾地いくじ村の西に位置し、丹後から但馬(現兵庫県)へ越える出石いずし街道の要地にあたる。

慶長検地郷村帳に高五七一・九三石「岩屋村」とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で八四六石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。

享和三年(一八〇三)の御領分縮緬屋御鑑札御改帳(「丹後加悦町誌」所引)に「岩屋村二十八機、外六機、同紬二機」とあって合計三六機、明和三年(一七六六)七機、文化一一年(一八一四)六〇機(岩屋村誌)と比較すると機業の推移がうかがえる。丹後機業全体との関連でその後の岩屋村の機業の状況を追ってみると、まず文政一〇年(一八二七)機屋制限の規定(旧岩屋村役場所蔵文書)がつくられた。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]津久見市岩屋町・高州町たかすまち大友町おおともまち文京町ぶんきようまち中田町なかだまち津久見浦つくみうら 高州町・清水町しみずまち天神町てんじんまち

彦野内ひこのうち村の北、津久見川の最下流域から津久見湾岸に至る一帯に位置し、東は千怒ちぬ村。天正一七年(一五八九)七月一三日「つくミ福浦之さと」の田善衛門尉らは伊勢神宮を参詣しているが(「参宮帳写」後藤作四郎文書)、この「福浦」は当地のふくと推定される。江戸時代は佐伯藩領津久見浦組を構成する一村であった。正保郷帳では赤河内あかがわち村のうちと推定される。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では津久見村枝郷とされ、村内に名主歩なしぶ石田いしださこ野添のぞい片白かたじろ・福・塩屋しおや宮野原みやのはる竹野鼻たけのはな姥目うばめ江野浦えのうらをあげる。うち姥目は宝暦一〇年(一七六〇)の宮本新田検地帳(同史料)に坪名としてみえることから、宮本みやもと村に所属するものか。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]東通村岩屋

下北半島東北端の尻屋しりや崎の西に位置し、津軽海峡に面する。桑畑くわはた(四〇〇メートル)の西麓にあたる。東は尻屋村・尻労しつかり村、西は野牛のうし村と接する。

天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高一五・一石余、うち畑八・五石余とある。戸口は二五軒・九三人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二二、うち支村袰部ほろべ六。田名部たなぶ通に属する。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]三方町岩屋

井崎いざき村の西南に位置し、北方に田地が広がる。小名に大野おおのおく飛騨ひだ湯波いなみがある。中世は倉見くらみ庄に属し、永仁三年(一二九五)一二月二日付倉見庄実検田目録案(大音家文書)に「真弘岩屋二丁五段」とみえ、所当米は八石余であった。また「延安比田并弘重一丁」(所当米二石一斗)・「稲見并吉宗一丁一反二百六十二歩」(所当米二石四斗余)が記されるが、両者とも当地の飛騨・湯波であろう。同四年二月日付の倉見庄実検田目録(同文書)には「岩屋十禅師若王子二反」もみえる。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]灘区岩屋北町いわやきたまち一―七丁目・岩屋中町いわやなかまち一―五丁目・岩屋南町いわやみなみまち岩屋・摩耶山まやさん

味泥みどろ村の西、西郷にしごう川河口沖積地の西岸に位置し、海に面する。村内を山陽道が通る。領主の変遷は大石おおいし村と同じ。慶長国絵図に都賀とが川西岸街道上に寺内村高二二九石余とあるが、これが岩屋村にあたると思われる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では岩屋村高二一九石余、ほかに摩耶山(高野山真言宗利天上寺)領高一〇石。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高二二一石余。天保郷帳では高二三三石余。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によると家数三五・人数一九八。明和六年(一七六九)の村明細帳(西灘村史)では家数七五・人数三〇五、素麺屋二・竹屋三・酒屋六(すべて大石村から出造り)、畳師一・医師一。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]安代町 浅沢あさざわ

安比あつぴ川流域に位置し、南西は荒屋あらや村、北は大清水おおしみず(現浄法寺町)。「雑書」正保三年(一六四六)九月一一日条に「浄法寺岩屋布施庄兵衛知行所之漆」とあり、すでに漆の生産がみえている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、蔵入高二三石余、七ヵ年平均の免は一ツ四分九厘三毛。江戸期を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)まで、新田分三二石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領となる(郷村古実見聞記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方二二五石余・畑方七五石余。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高二二四石余・給所高三三石余。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]山南町岩屋

南は井原いはら村と境を接し、東西を山に挟まれた狭小な谷中に集落がある。建武二年(一三三五)八月五日の岩屋郷檀那願文(熊野本宮大社文書)に紀州熊野の檀那として「たんはのくにいわやのかう」とみえるが、その後の文書には文和四年(一三五五)八月一二日の岩屋檀那願文(同文書)に「たんはのくにいはらのいわやのちう人」、応永二七年(一四二〇)八月一一日の井原庄岩屋入峰山伏願文(同文書)に「にうふの山伏三人 たんはの国いはらの岩屋」などとみえ、郷名を冠した例はない。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]瑞穂町岩屋

山田やまだ村・淀原よどはら村の南、出羽いずわ川支流の岩屋川・黒坊くろんぼう川・山田川の中・上流域の山間村。後谷うしろたに下谷しもたに上組かみくみ奥岩屋おくいわやの四集落がある。江戸初期に八日市ようかいち村から分村。正保四年(一六四七)の古田領郷帳に岩屋村とみえ、高三〇〇石余、免六ツ六分。慶安元年(一六四八)の古田領小物成帳によれば、当村惣二郎がかな役として鉄一五貫、新かな役をいのさこ下亀谷しもかめだに後迫うしろさこの三ヵ鑪から一七貫を上納。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]井波町岩屋

縄之内なわのうち村の北に位置する散居集落の村。二万石にまんごく用水が東境を、八塚やつづか用水・苗島のしま用水が北西を流れる。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数九、いわや組に属する。正保郷帳では高五九二石余、田方三九町四反余、岩屋新村の新田高一一六石余、田方六町九反余・畑方八反。ほかに野化野のうけの(能毛野)分があり、新田高五三石余、田方三町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八四石・免四ツ八歩、小物成は野役四五匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)

岩屋村
いわやむら

[現在地名]野津町岩屋 岩屋

中野なかの村の西、野津川西岸にある。野津氏庶家岩屋氏の名字の地。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には岩屋村が中野村など三ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では川登かわのぼり村に含まれる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば「出ノ津留村」と共の本高一一五石余・出来高一四石余、田方九二石余・畑方三七石余、雑木山ありと注記される。正保郷帳に村名は記載されず、豊蔵とよくら村のうちに含まれる。江戸時代後期の免は五ツ五分、井手いでノツルは七ツ九分(「雑録」臼杵藩政史料)。元文五年(一七四〇)田中組庄屋三郎兵衛が罷免されると、当村の弁指丹右衛門が庄屋に任じられ、弁指として給されていた当村内二〇石の地は田中たなか村内二〇石と交換されて三郎兵衛の子平之丞に渡された(臼杵藩旧貫史)

岩屋村
いわやむら

[現在地名]豊前市岩屋

大河内おおかわち村の西、岩岳いわたけ川上流域に位置する。当地は修験の霊山求菩提くぼて山の結界入口であったといわれ、集落は求菩提山へ至る道沿いに形成されていた。永享三年(一四三一)一〇月日の求菩提山領田地坪付(求菩提山文書/北九州市立歴史博物館研究紀要一)に、「如法寺筑前守押領」の注記で「犬ケ岩屋」がみえる。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に「犬か岩屋村」とみえ、御蔵納分・給人分、家数五八・人数一一四(うち百姓一〇・名子二七)、牛一二・馬六。村内の祠に安置されている木造地蔵菩薩坐像の寛永二年(一六二五)の銘文には「上毛郡狗カ岩屋」とみえる。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]杵築市岩谷いわや

杵築城下から北方に、かも川に沿ってじようたに峠に続く往還に沿った村。峠の南方の急傾斜地に田畑を開発し、西方は深い谷となる。国東くにさき郡に属した。文明一七年(一四八五)七月日の宇佐公永譲状案(宮成文書)に「一所 同国安岐郷内懸樋・岩屋・青山・松武」とみえる。小倉藩元和人畜改帳では高一八三石余、家数五五・人数八八(うち百姓一一・名子二・山守一・大工一・鍛冶五)、牛一七・馬四。正保郷帳では安岐あき郷に属し、田方八二石余・畑方三三石余で、「柴山有半分日損所、新田有」と注記される。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]勝山市北郷きたごう町岩屋

水無みずなし山の北西麓、岩屋川上流の山間の孤立村落。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高九四・二六石とある。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。正保郷帳によれば田方八五石余・畠方九石余。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]厳木町大字岩屋

厳木川中流左岸の村で、背後の山嶺は石炭層を有する砂岩の膚が露出し、切り立った巌頭が各所にみられる。この地には藩政末期から昭和初期にかけて大小の炭鉱があったが、現在はすべて廃坑となっている。正保絵図に村名がみえる。

秀島文書に文政一一年(一八二八)犬の谷いんのたにで採炭された記録があり、以来、各所で採炭されている。明治七年(一八七四)の調査には、七曲ななまがり稲荷山いなりやま・ナカセに炭坑があった。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]八尾町岩屋

樫尾かしお村の南東、久婦須くぶす川右岸にある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「岩屋村」とあり、佐々成政が一九二俵の当所などを佐々定能に与えている。寛永七年(一六三〇)の宗門改誓紙(聞名寺文書)には「いわや村」とあり、八尾聞名もんみよう寺の門徒であることを誓約している。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは掛畑かけはた村などと合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では樫尾村の一〇町ほど南東にある枝村新田としてみえ、高一九五石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高二九四石。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]姫路市豊富町神谷とよとみちようこだに

黒田新くろだしん村の東、神谷川流域に位置する。村名は当地に所在する岩屋寺に由来する。慶長八年(一六〇三)詫間源之丞は姫路藩主池田輝政から岩屋で四六石余など都合四〇〇石を与えられた(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。正保郷帳では田方一五五石余・畑方五一石余。元禄郷帳でもほぼ同高であるが、ほかに当村枝郷の黒田新村が記される。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]神崎町岩屋

根宇野みよの村の東に位置し、入相いりあい(七八〇・二メートル)の西麓、越知おち川の流域に立地する。多可たか郡に属し、北は越知村。慶長国絵図に「いわや村」とみえ、その南西方に「いわや」「西いわや」がみえる。領主の変遷は大山下おおやましも村と同じ。寛永三年(一六二六)の多可郡新検高(松井家文書)では高一二九石余。正保郷帳では田方一五六石余・畑方一三五石余、「鉄炮役有・山役有・杉原役有・炭釜役有」と注記される。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]国東町岩屋

はる村の西に位置し、当地で横手よこて川と赤松あかまつ川が合流する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、釘本・田屋・吉田三氏の知行で、高二八三石余、家数五五のうち本百姓・小百姓一一、隠居・名子・庭屋・牛屋三六、鍛冶五、大工・山守各一、男四七(うち名子二)・女四一、牛一七・馬四。正保郷帳では来崎くのさき郷に属し、田高一一四石余・畑高九〇石余で、ほかに新田が開かれ、茅山・柴山があり、半分日損所と注記される。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]鏡野町岩屋

東は原口はらぐち(現加茂町)、西は奥津おくつ(現奥津町)、南は大町おおまち村、北は越畑こしはた村に接する香々美かがみ川沿いの山村。貞治四年(一三六五)二月一日の児玉延行譲状写(山口県文書館所蔵文書)によれば、「美作国岩屋村」などが息子善四郎持行に譲られている。正保郷帳に高五四石余、うち田方三三石余・畑方二一石余とある。「作陽誌」では家数二七・人数一二〇。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]山添村大字岩屋

笠間かさま川流域毛原けはら村東北に立地。康保元年(九六四)九月二五日付の大和国都介郷刀禰等解案(東大寺文書)広瀬ひろせ牧の四至を記すなかに「西限石屋并少野石村笠間河」とある。「石屋」は岩屋である。口碑によると、奈良春日神社造営用材は当地域から献上したという。また天正年間(一五七三―九二)筒井順慶が当村八柱やはしら神社に奉幣祈願、再度の寄進・造営を行ったと伝える。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]金山町岩瀬いわせ 岩屋

八坂はつさか村の北、馬瀬まぜ川流域にある。美濃国郡上ぐじよう郡に属する。正保郷帳に村名がみえ、田一一石余・畑一三石余、郡上藩領。正保三年(一六四六)分知により旗本遠藤領となる。享保六年(一七二一)には本田畑に対して新田畑は高一一石余となっている(「田畑高反別名寄帳」大谷文書)。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば高三三石余、田八反余・畑三町九反余、家数一九、男五一・女五七、馬九。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]今庄町岩谷いわや

日野川の最上流にあり、南は三国みくにヶ岳(一二〇九メートル)を境に美濃国・近江国と接し、西は手倉てくら(一〇三七・一メートル)が迫る。北は下流広野ひろの村。当村は木地師集落で、延宝二年(一六七四)その存在が確認されたが、すでに寛文一〇年(一六七〇)一〇月付五ケ山木地引連判証文(大河内神社文書)が作られており、そのなかに「岩や谷」の名がみえる(→大河内村

岩屋村
いわやむら

[現在地名]脊振村大字広滝ひろたき字岩屋

土器かわらけ山の北、背振せふり峡に位置する。城原じようばる川沿いに発達した村である。慶長絵図に村名がみえ、村高の記載はなく「上条郷ノ内」と記される。

岩屋村
いわやむら

[現在地名]東条町岩屋

天神てんじん町の南西、東条川の右岸にある。慶長国絵図に「いわや村」と記される。正保郷帳によると田方二七五石余・畠方一四石余、幕府領。幕末には遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)(旧高旧領取調帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報