大河内村(読み)おおかわうちむら

日本歴史地名大系 「大河内村」の解説

大河内村
おおかわうちむら

[現在地名]椎葉村大河内 本郷ほんごうじよう矢立やたて合戦原かせばる矢立開拓やたてかいたく合戦原開拓かせばるかいたく

飯干いいぼし(一一六二メートル)を挟んで葉木はき村の南に位置し、南流する一ッ瀬川とその支流域に立地する。大河内掛一六ヵ村の一つで、掛内三組のうち大河内組に属する。村内には小村として屋敷野やしきの村・矢立村・加せはる村・井戸いど村・野之ののくひ村・白石野平村・下つる村・松屋村・古城村がある(延享三年「村覚」那須家文書)。「椎葉山根元記」によれば、当村は近世初頭、豊臣秀吉から鷹巣山守として朱印を賜ったとされる椎葉山三人衆の一人那須紀伊の根拠地で、元和五年(一六一九)の椎葉山騒動後、その子孫は椎葉山衆(御朱印方)の一人として山中に勢力をもったという。明暦二年(一六五六)椎葉山が肥後人吉藩預所となってからは大河内掛の庄屋を勤めた。寛永五年(一六二八)の椎葉山法度(相良家文書)に大河内内膳の名がみえる。日向国覚書には椎葉山之村形の一村として大河内とみえ、「是ヨリ肥後堺迄二里卅二丁」と注記される。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑一町七反余(高一石六斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]伊万里市大川内町おおかわちちよう

くろ(三六八メートル)青螺せいら(五九八メートル)まきノ山(五五三メートル)こし(四八八メートル)を結ぶ尾根を南限とし、北に緩斜面をもつ地域で、東は杏子あんす川、西は伊万里川が北流し、村内の市村いちむらで合流。慶長絵図には「古賀ノ内 大川内」、正保絵図には「平尾村百五十八石余」「大河内村五百三石余」とあり、貞享四年(一六八七)改の郷村帳には「一、大川内村 吉田村 冨野村 平尾村 市ノ瀬村 岩屋村 皷村」とあり、吉田よしだ村以下は大川内村の枝村になっている。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]豊田町大字大河内

村の東北から南西に木屋こや川の上流が貫流し、その平野の中央で大きく屈曲して集落を川内に抱く。この地形が大河内の地名の由来でもある。北は地吉じよし村、東南は麻生上あそうかみ(現美祢市)、南は殿敷とのしき村、西北は稲見いなみ村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に所属した。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「大河内」とある。同一五年の検地帳では地吉村と合わせ総石高一千二四石余、うち田方が五九町余で高九一六石余、畠方は一一町余で高五五石余、百姓屋敷六八、小物成一四石余とある。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]園部町大河内

法京ほうきよう村と上天引かみあまびき村・下天引村の東に位置し、東は八田はつた村、南は桑田郡どんはた(現亀岡市)。南辺には七〇〇メートル前後の山が連なり、北に行くにつれ低くなる。集落は村の北部、琉璃渓るりけいを流れる川の沿岸にあるが、えのき垣内かいちにも小集落があり、集落は各々榎・すぎさわとよばれる。村名は、南北朝時代、楠木正季が落ちのびて当地に至り、その出身地の河内国から大河内村となったとの伝えがある。

大河内村は室町時代には「地下笛楽人」山井氏と関係があったようである。「親長卿記」文明一八年(一四八六)三月一〇日条に

<資料は省略されています>

とある。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]熊毛町大字大河内

現光市との境にある烏帽子えぼし(四一二・四メートル)の東北麓に広がる丘陵村。村のほぼ中央を笠野かさの川が東流する。都濃宰判に属した。

文禄二年(一五九三)三月二二日付の守田伝兵衛家文書(「閥閲録」所収)に「熊毛郡大河内村 粟屋帯刀知行所百姓伝兵衛」とみえ、また同じく寛永二年(一六二五)八月一三日付の粟屋帯刀家文書に「千四百石 熊毛郡大河内村」とみえ、大河内村の一部は粟屋帯刀の知行地であった。

大河内村
おかわちむら

[現在地名]松阪市大河内町

寺井てらい村の西、矢津やづ村の南にあり村域内を坂内さかない川が流れ、それに沿って和歌山街道が通る。中世後期には北畠三大将の一、大河内御所の本拠地となり、「一千之大将」(勢州軍記)といわれていた。正長元年(一四二八)北畠満雅敗死の後、大河内の顕雅が実質上の国司であり、北畠氏存続のために室町幕府との交渉にあたった。「満済准后日記」には永享二年(一四三〇)四月二五日「公方御徳日間、加斟酌由、内々申遣赤松大河内方処、達上聞云々」、二六日「伊勢国司号北畠少将顕雅、御免、御対面、赤松入道同道云々、此事予執申了、依赤松入道申也、三万疋太刀馬進上云々」、二七日「伊勢国司顕雅来、五千疋太刀随身、盆、香合、太刀一腰進之了」、六月九日「伊勢国司知行分、一志、飯高両郡安堵事、今度降参以後、任申請旨可被下也」、二三日「自赤松方使者上原入道来、伊勢国司安堵事、故満雅息少生ニ相当可被下条可畏入」と記されている。

大河内村
おおこうちむら

[現在地名]今庄町大河内

日野川の最上流部に合流する枝谷の上流にある。東の源平谷げんぺいだに(九四九・六メートル)、西の赤谷あかだに(八〇一・四メートル)に挟まれた山村。西は下流広野ひろの村。延宝二年(一六七四)その存在が確認された。この経緯については「続片聾記」宝永四年(一七〇七)の条に次のようにある。

<資料は省略されています>

同年郡奉行蟹江刑部右衛門から村方へ定書(大河内神社文書)が出された。

大河内村
おおこうちむら

[現在地名]森町三倉みくら

上野平うえのたいら村の北東にある。太田おおた川源流に近い最上流部よし川の西岸と矢倉沢やくらざわ川上流部に集落があり、北に春埜はるの(八八三メートル)、東に大日だいにち(八八一メートル)がある。豊田とよだ郡に属し、三倉郷一四ヵ村の一。村名について、昔大河内備中守欠綱の祖が当地出身で、周辺諸村は大河内郷を称したとの伝承がある(遠江国風土記伝)正保郷帳周知すち郡として村名がみえ、永九貫二七六文、畑方、幕府領。

大河内村
おおごうちむら

[現在地名]但東町大河内

薬王寺やくおうじ村の南東、久畑市場くばたいちば村の東にある。薬王寺川の左岸に注ぐ大河内川の流域山間を占め、出石・福知山道が通る。同道は当地で南に折れて山道を上り、登尾のぼりお峠を越えて丹波国天田あまた上佐々木かみささき(現京都府福知山市)に下った。近世の領主の変遷は水石みずし村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二四一石余。出石封内明細帳によると拝領高二一四石余・改出高三八石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑二石余・田方二一〇石余・畑方三五石余。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]芦北町大岩おおいわ

吉尾よしお川上流の大岩川に沿った山中に集落が点在し、周囲は岩場が多い。南に吉尾村がある。球磨郡一勝地谷いつしようちだに(現球磨郡球磨村)橋詰はしづめの観音堂に永正一三年(一五一六)の原銘をもつ鰐口があり、「奉施入鰐口肥陽田浦大河内観音御宝前 永正十三丙子十月十八日 願主慶汲」とある。同鰐口には「一升内庚申衆」による天文六年(一五三七)の追銘もある。

大河内村
おこちむら

[現在地名]紀和町大河内

板屋いたや村の南、一族いちぞく(八〇〇・五メートル)の西にある小盆地。村中を楊枝ようじ川の支流大河内川が流れる。中世は入鹿氏領であったと思われる。「紀伊続風土記」は、小名である三井良みいら(現三浦)十薬じゆうやく(現地薬)を「三井良或は三浦谷といふ、村の五町にあり、十薬は十役と書す、村中より申の方にて七軒あり」と記す。大谷おおたには板屋村寄りにあって、当村より二・五キロ離れる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「入賀之内おこち村」、慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に「大河内村」と記される。

大河内村
おおがわちむら

[現在地名]西伯町上中谷かみなかたに

早田わさだ村の南東、法勝寺ほつしようじ川上流域に位置し、法勝寺往来に沿う。南東は篠畑ささばた村。天保一二年(一八四一)の田畑地続全図(西伯町誌)によれば耕地は法勝寺川上流では同川南側に、下流では北側に開かれている。拝領高は七〇石余、本免は五ツ九分。藪運上銀一五匁五分五厘・大炭運上銀三匁五分が課され(西伯町誌)、米子荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高八七石余、竈数一七。安政三年(一八五六)頃の身許九段調(細田家文書)では家数一七、階層別の内訳は中の下一・下の中七・下の下九。「伯耆志」では家数一七・人数八〇、林一〇町三反余、物産として炭・苧をあげ、また藁蓆を製造していた。

大河内村
おおかちむら

[現在地名]倉吉市大河内

もり村の西、北谷きただに川の上流域に位置する。地内にはタタラだに釜谷かまだに釜穴かまななど蹈鞴製鉄にかかわる地名や、木地屋敷きじやしきという木地師の居住をうかがわせる地名が残り、西方、北谷川上流には枝郷の汗干あせびがある。村名は河内国の武士佐々木氏が当地に土着したことに由来すると伝え、汗干は佐々木家の分家が開いた地という。拝領高は一二七石余、本免は六ツ。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二〇〇石余、竈数三〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二八七石余、竈数四四。藪役銀五〇匁が課されていた(藩史)

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]和歌山市大河内

名草なくさ郡に属し、なか村の東南、鶏冠とさか山の西にある。小名に外畑そとばた赤松あかまつ北谷きたたに瀬戸せとがあり、中村との境にまわり淵がある。村の東、つぶてヶ峠を抜けると那賀なが孟子もうこ(現海南市)に至る。古代末期から中世にかけて山東さんどう庄に含まれた。慶長検地高目録には「大川内村」と記され、高六四二石余、小物成九斗四升二合。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]芦北町大川内おおかわち

湯浦ゆのうら川がやや広い平地に出たところにある。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「大川内村」とある。近世には大河内と大川内は混同して使用され、近代になって大川内にまとめられた。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女四九、うち女二三、一五歳より六〇歳までの男一三人のうちに二人の郡筒が含まれ、竈数六、馬二とある。宝暦年間(一七五一―六四)の記録(「万覚帳」芦北町誌)には家数五軒とある。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]豊前市大河内

下河内しもがわち村の西に位置し、岩岳いわたけ川中流域で求菩提くぼて山から延びる山地・丘陵地に立地する。同川沿いに求菩提山に至る道が通り、道沿いに集落が形成されている。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分・給人分、家数九六・人数一八六(うち百姓一一・名子五八・鍛冶一)、牛二〇・馬一三。寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば免四ツ三分四朱、高七九一石余、反別田四一町五反余・畠八町二反余、家数一一五、うち本村七六・新貝しんかい二一・中久保なかくぼ一〇・大辺おおべ四・弓取ゆみとり四、人数五〇九(うち庄屋一)、牛四二・馬一七、薪馬札二・薪歩行札八・室屋札一・猪口酒札一・質屋札一、池一、山王権現(現日吉神社)法覚ほうかく(現真宗大谷派)がある。

大河内村
おおこうちむら

[現在地名]北条市大河内

大月おおげつ山西斜面の山間の村。横谷よこだに閏谷うるうだに柳谷やないだに(現松山市)ふもと牛谷うしだにの各村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「大河内村 芝山有、林少有」とみえ、村高は四〇石五斗七合、うち田方二五石九斗八升一合、畑方一四石五斗二升六合とある。江戸時代を通じて村高は同じ。村名について天保郷帳にも「大河内村」とあるが、「伊予国風早郡地誌」には「中古干支詳ナラス大川村ト改メシニ明治元年九月今ノ村名ニ復ス」とあり、「大川村」とよばれた時期があり、文政一二年(一八二九)の地坪帳には「大川村」とみえる。

大河内村
おおがちむら

[現在地名]鏡村大河内

鏡川の中流左岸、小浜こはま村の南にあり、集落は主として南面した山腹緩傾斜面にある。「土佐州郡志」には地頭分じとうぶん郷の村として「大柿内村」とみえ、「東限蓮台村、西限領家村川、南限尾立宗安寺村、北限小浜村、東西十二町南北二十町余、(中略)西北麓有領家地頭分上八川通途」と記す。

天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳には「大垣内村」「太垣内村」とみえ、地積三町七反余で、うち田二町九反余・畠一反余・屋敷五反余ですべて吉松筑前の給地。屋敷は一七筆で、うち居屋敷が一〇筆。吉松筑前は在地の給人で、村内に一反六代四歩の土居屋敷を構え、居屋敷もほとんどが土居周辺にあった。

大河内村
おおかわちむら

[現在地名]水俣市大川おおかわ

久木野くぎの川の最上流部にある山村、北と西には寺床てらとこ村・中小場なかこば村・越小場こしこば村があり、東と南は薩摩国伊佐いさ山野やまの(現鹿児島県大口市)に接する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「久木野村内大川内村」とみえ、三名の地侍が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報