大橋村(読み)おおはしむら

日本歴史地名大系 「大橋村」の解説

大橋村
おおはしむら

[現在地名]行橋市大橋・大橋一―三丁目・東大橋ひがしおおはし一―六丁目・南大橋みなみおおはし一―六丁目・中央ちゆうおう一―三丁目・門樋町もんぴまち神田町じんでんまち西宮市にしみやいち一―四丁目・宮市町みやいちまち

行事ぎようじ村の南に位置し、北境近くを長峡ながお川、南部をいま川が流れる。今川はかつて現流路の北西側、村内金剛丸こんごうまるの北側から御茶屋の東を流れていたが、貞享年間(一六八四―八八)郡奉行田中条右衛門の時に河道付替工事が行われたという(京都郡誌)。正応四年(一二九一)一〇月日の宇都宮尊覚給地覚(宇都宮文書/鎌倉遺文二三)に「大はし」がみえ、京都みやこ郡地頭職などとともに宇都宮氏に給与されていた。明応四年(一四九五)秋の善法寺領九州五ヶ所正税所納日記(八幡善法寺文書/唐招提寺史料)に「豊前国大橋 四十石 倉敷」とみえ、大橋は山城石清水いわしみず八幡宮善法寺家が建立した律院善法ぜんぽう(現京都府八幡市)領の年貢送進に際して倉敷として機能していた。河川と海上の結節点という立地から、隣接する今井いまい津同様に港湾として発達していたようである。天文一九年(一五五〇)一〇月一六日、大内義隆は藤原実治に「仲津郡大橋村小部野七町」を宛行っているが(「大府宣案」麻生文書/筑前麻生文書)、弘治二年(一五五六)には同地を大内義長が右田鑑康に給与している(同年四月一三日「大内義長宛行状写」右田文書/熊本県史料 中世篇四)。永禄七年(一五六四)と元亀元年(一五七〇)の御祓賦帳(神宮文庫蔵)には、大橋の岩武氏(毛利被官)が檀那としてみえる。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]南陽市大橋

爼柳まないたやなぎ村の南南西、吉野よしの川と屋代やしろ川の合流地点にあり、米沢街道に沿う。村名は吉野川に架かる橋にちなみ、最上川を遡行する小舟の終点で(赤湯町史)、「従是内無口附馬不可乗高声加烟筒無用。天保十二年辛丑年大橋駅」と刻まれた石碑がある。もともとは津久茂つくも(現東置賜郡高畠町)の枝郷で、天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録および同年正月一七日の伊達晴宗充行状(湯目隆治氏旧蔵湯目文書)に「屋代庄つくものえた郷ミなみ大橋、きた大橋不残(中略)永代不可有相違候也」とある。これより先、応永五年(一三九八)九代伊達政宗の命で津田某(本姓は湯目資綱)が大橋館に入り、一族の丹波重久は津久茂館主として天正一九年(一五九一)伊達氏の陸奥岩出山いわでやま移封まで続いた(伊達世臣家譜)。館は東西一五間・南北三九間、北にとがった五角形の御殿跡とよぶ所を中心に、北と西に幅四間半、東と南に二・五間の内堀をめぐらし、さらに二間から八間の外堀をもった約二町歩の地域である。付近にたてうちてらうち番所ばんしよ鍛冶屋敷かじやしきの地名があり、館跡にカッパ淵とよばれる堀が残る。

伊達氏領時代、当地にかかわる田地売買の記録が多くみられる。明応元年(一四九二)一二月二〇日、「おほはし之郷之内さへもん四郎さいけの事、永代六貫文」をさへもん四郎とその弟妹が藤右衛門兄弟に売渡し(「さへもん四郎売券」湯目隆治氏旧蔵湯目文書)、翌二年二月一〇日大橋のさへもん四郎在家六貫文その他合せて九貫五〇〇文を「ひやく□□」へ売渡している(「某田地証文」東北大学附属図書館所蔵湯目文書)

大橋村
おおはしむら

[現在地名]松戸市大橋・二十世紀が丘梨元町にじつせいきがおかなしもとちよう二十世紀が丘丸山町にじつせいきがおかまるやまちよう二十世紀が丘戸山町にじつせいきがおかとやまちよう二十世紀が丘中松町にじつせいきがおかなかまつちよう二十世紀が丘萩町にじつせいきがおかはぎちよう二十世紀が丘美野里町にじつせいきがおかみのりちよう

国分こくぶん谷の支谷きた谷津を挟んで和名わな村の南西に位置し、同南谷津を挟んで南は国分村(現市川市)。集落は台地周縁に展開。「本土寺過去帳」二三日の文明一七年(一四八五)七月の年紀がある妙言尼には「大ハシ」と注記があるのをはじめ、同過去帳に地名が散見する。「松戸市史」によると、徳川家康の五男武田信吉の外祖父秋山虎康(法名日楽)は文禄元年(一五九二)葛飾かつしか郡荒谷(のちの当村)の荒地を開発、慶長元年(一五九六)地内に平賀本土ひらがほんど寺の末寺本源ほんげん寺を開創したといい、明暦本「本土寺過去帳」には「本源寺本国院日朝 大橋村 戊申十月」とある。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]栗東町大橋一―七丁目

手原てはら村の北東、野洲やす川と葉山はやま川に挟まれた平地に立地。慶長八年(一六〇三)徳川家康は上野国館林たてばやし(現群馬県館林市)榊原康政に「大橋村」の三〇一石余を含め五千石を在京賄料として与えている(「徳川家康朱印状」榊原文書)。これは同一〇年同国那波なは(現群馬県佐波郡)の酒井忠世(のち上野前橋藩主)領となる(姫路市立図書館所蔵文書)。慶長検地では高六六八石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では前橋藩領三〇一石余・大坂定番稲垣重綱領二一四石余・旗本伏屋領一五二石余(同氏領は以後幕末まで変化ない)

大橋村
おおはしむら

[現在地名]福山市駅家えきや町大橋

今岡いまおか村の西、芦田あしだ川の南岸に位置する。有地あるじ川の芦田川への合流点に古くから大橋が架せられており、村名はこの橋にちなむものであろう。村域は二河川合流点の沖積平野で、かつて大橋の芦田川南岸、新池尻しんいけじりから石棒が出土、弥生式土器も出土している。古墳も北部の丘陵地に点在、とくに後期横穴式古墳群の十二じゆうに塚の存在は早くから知られていた。また「西備名区」は「天神山城」の項で「一孤丘なり城主知れず、近き比此山より古刀、矢根等、又異風なる陶物など掘出せり」「いもじ山共云ふ」と記し、さらに「今の有地川を隔てゝ宿茂すくも塚と云ふ孤丘あり、古へ穴の海の比島嶼とみゆ」と記すが、これらも古墳ではなかろうか。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]南郷村大橋

大新田おおにた村の北西に位置し、集落は伊南いな川左岸の河岸段丘上にある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「大橋 百六十七石八斗二升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で免五ツ一分。古町組に属し、寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高一九五石、免四ツ九分で年貢は金納。田四町九反余・畑二四町三反余。家数二三・竈数四一、男一三二・女一一七、馬一〇。小役として綿役・糠藁役・布役・川役などが課されたほか、役漆木三本(漆三勺納)・役蝋六三匁・大買蝋四二匁(代銀一分一厘)・小買蝋二四匁(代銀一分九厘二毛)があり、「漆蝋不足ニ付金子ヲ以納」とある。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]笠間市大橋

朝房あさぼう山の西麓にあり、村内を涸沼ひぬま川が南流する。東は池野辺いけのべ村、南は福田ふくだ村。中世は那珂西郡に属し、治承三年(一一七九)五月日の常陸国総社造営注文案(総社文書)に「玉垣六間 大橋郷」とあり、弘安大田文には「大橋加津見沢十丁」とある。さらに康永二年(一三四三)正月九日の鹿島神宮領田数注文案(鹿島神宮文書)に「那珂西大橋・加津見沢四十一丁一反」とあり、康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「那珂西郡勝見沢大橋郷平沢蔵人給分」とみえるが、文禄年間(一五九二―九六)の太閤検地以後茨城郡に編入される。

江戸時代は水戸藩領で寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高九七〇・六七石とあり、「水府志料」の戸数はおよそ九二。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]都賀町大橋

臼窪うすくぼ村の北、赤津あかづ川右岸に立地する。北東は富張とみはり村と接し、村の東部を栃木町と粟野あわのを結ぶ道が通る。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領、幕府領のあと元和元年(一六一五)に榎本藩領になったとされる。慶安郷帳では田二五三石余・畑一七三石余で旗本本多領。以後領主は変わらない。元禄三年(一六九〇)の七村物成帳(石川俊雄文書)では高四三四石余で、田二四町三反余・二三五石余、畑三〇町八反余・一九八石余、取米七七石余・取永二九貫文余、ほかに野銭があった。改革組合村では家数二七。慶応四年(一八六八)の取調帳(大久保和文書)によれば、村高のうち諸引三九石余、例幣使街道金崎かなさき宿(現上都賀郡西方村)の定助郷勤高三四三石余、安塚やすづか(現壬生町)勤分五一石で、家数二八・人数一三八。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]彦根市芹川町せりかわちよう芹町せりまち外町とまち

安清やすきよ村の南、善利せり川沿いに位置し、川の北に本郷の大橋村(善利大橋村とも)、その東に枝郷外町村、川の南に枝郷なか(善利中村とも)がある。「江左三郡録」では善理村とあり、城下の大橋町・善利新せりしん町・善利中町は当村域に成立した町で、「今農家町ノ裏手ニ少シ残リアリ」とある。善理は中世の善理庄の遺称。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「大はし村」とみえ、高八〇四石余が豊臣秀吉の直轄領となった。慶長高辻帳では八〇二石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)でも同高、定免で七ツ。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]鳩山町大橋・まつおか三―四丁目

赤沼あかぬま村の北に位置し、村の中央をはと川支流の大橋川が流れる。東は石坂いしざか村、西は下泉井しもいずい村。松山まつやま領に属した(風土記稿)。古くは上泉井村・下泉井村と一村で泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降、泉井村は三村に分村したと伝える。「風土記稿」によれば村内に架かる橋が「近村ニハ是程ノ橋モナケレハ」との理由で大橋とよばれていて、分村の際の村名になったという。元禄郷帳では高二〇一石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本岡野領。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]日立市大和田おおわだ

久慈川下流の左岸低地に位置し、南を茂宮もみや川が東流し、岩城相馬いわきそうま街道が通る。東は石名坂いしなざか・茂宮両村。「新編常陸国誌」に「旧茂宮村ト共ニ一村ナリシニ、寛永中(中略)分レテ別村トナルト云フ」とあり、元禄郷帳に「大橋村」とみえるが、「新編常陸国誌」には天保一三年(一八四二)に「大和田村ヲ置クニ及デ、其中ニ入ル」と記す。同書に明和元年(一七六四)の戸数八〇・人口三四九とあり、「水府志料」には村の東西六町余・南北四町余、文化初めの戸数六八とある。駅所で、寛文二年(一六六二)より田中中たなこうち村と半月ずつ交替で人馬を継いだ。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]七宗町神渕かぶち 上大橋かみおおはし小穴こあな下大橋しもおおはし大穴おおあな落合おちあい

神淵川を挟んだ山間地帯、飛騨への道筋に位置する。東は上麻生の室兼かみあそうのむろがね村、南は下麻生村(現川辺町)、西は間見まみ村、北は大塚おおつか村。神淵十郷の一、大橋組とも称した。元禄郷帳に高一五二石余とある。「濃州徇行記」では高一八七石余、家数六七余。中島家は代々兵左衛門を襲名し、村方年貢金の取替えや御用調達金の上納を行い、苗字帯刀が許されており、遠く奥州・北陸方面へ茶の販売に出かけた(七宗町史)

大橋村
おおはしむら

[現在地名]石岡市東大橋ひがしおおはし

園部そのべ川右岸に位置し、西はたいら村。治承三年(一一七九)五月日の常陸国総社造営注文案(総社文書)に「玉垣六間 大橋郷」、正安四年(一三〇二)六月一三日の税所宗成和与状(税所文書)に「加大橋郷親幹知行分定」とある。江戸初期に府中藩領となり(府中雑記)、のち天領・旗本領となる。元禄郷帳の村高は七〇二石余、幕末は天領二〇二石余のほかは旗本伊丹・沢・小菅・本多・小出・羽田・河野・松平・奥山各氏が支配した(各村旧高簿)

大橋村
おおはしむら

[現在地名]谷田部町西大橋にしおおはし

上苅間かみかりま村の西、蓮沼はすぬま川東岸に位置。江戸時代には松平・長田・伊東の旗本三氏の相給地となり廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には松平太郎・長田綱之允・伊東貞四郎の知行地それぞれ六八・七六六石に分れていた。明治初期に西大橋村と改称。

安福あんぷく寺は真言宗豊山派で良栄の開基と所伝される。

大橋村
おおはしむら

[現在地名]當麻町大字当麻

当麻村南方に所在。慶長郷帳の村高一九四・九二五石、幕府領(代官大久保長安)、元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領、延宝七年(一六七九)郡山藩主本多忠国の転封で幕府領、天和二年(一六八二)近江水口藩(加藤明友)領、元禄八年(一六九五)下野壬生藩(加藤明英)領、正徳二年(一七一二)加藤明英没により再び幕府領。

大橋村
おおはしむら

東は陸奥湾に面し、南は六枚橋ろくまいばし村、北は後潟うしろがた村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一三・四二五石、うち田方一〇・〇三六石、畑方三・三八九石とある。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下である(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報