下麻生村(読み)しもあそうむら

日本歴史地名大系 「下麻生村」の解説

下麻生村
しもあそうむら

[現在地名]高岡市下麻生・下麻生伸町しもあそうしんまち戸出大清水といでおおしみず葦附あしつきなど

中田なかだ町の北、庄川下流右岸に位置。庄川の河道の変化によって村が分断され、一部は左岸にかかる。北は射水いみず西広上にしひろかみ(現大門町)、東は常国つねくに村。北部に下代しもだいという垣内がある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(新田家文書)にみえる般若野はんにやの麻生郷のうち。慶長九年(一六〇四)一二月、「下あさう村」のうち一五〇俵余の台所入りの年貢徴収が射水郡串田くした(現大門町)三右衛門に命じられた。また有賀左京(直治か)が当村など四ヵ村の代官を命じられている(「前田利長判物」有賀家文書)。翌一〇年、中田船渡場の管理が当村・増仁ぞうに村に申付けられた(前田利長判物「諸留覚書」川合家文書)。元和五年(一六一九)には下浅生として戸出又右衛門組に属し、役家数一六(家高新帳)

下麻生村
しもあそうむら

[現在地名]川辺町下麻生、七宗ひちそう中麻生なかあそう

飛騨川右岸の河岸段丘上に位置し、北は納古のうこ山、東は下吉田しもよしだ村、南は上川辺村、西は川浦かわうら(現美濃加茂市)。弘治年間(一五五五―五八)と思われる一二月一一日の斎藤范可充行状(斎藤文書)に下麻生とある。この所領は同時期のかち田年貢銭目録(同文書)によれば、「あさう上下」で一八三貫となっている。織豊期稲葉彦六の領地、関ヶ原の戦以後幕府領、元和元年(一六一五)より尾張藩領となる。慶長郷帳では麻生村とあり、高三〇三石余。正保郷帳では田高九一石余・畑高二一二石余、ほかに小物成一石・銀五八匁余。

下麻生村
しもあさおむら

[現在地名]麻生区下麻生

都筑つづき郡に属し、南境を谷本やもと川が流れ、東は早野はやの村、西は寺家じけ(現横浜市緑区)、北は上麻生かみあさお村・王禅寺おうぜんじ村に接する。谷本川に設けた下麻生堰により同郡の上・中・下くろがね大場おおばいちの五ヵ村(現緑区)へ用水を供給した。子の神ねのかみしまなどの小字がある。元弘三年―建武二年(一三三三―三五)と推定される足利尊氏・同直義所領目録(県史三)に「麻生郷時顕」とみえる。

下麻生村
しもあそうむら

[現在地名]宇佐市麻生

山袋やまぶくろ村の西、伊呂波いろは川上流の山間にあり、当地で同川に山口やまぐち川・ノ川が合流する。北西は下毛郡上深水かみふこうず(現三光村)、南は中麻生村。地内に禅源ぜんげん(現臨済宗妙心寺派)がある。中麻生村・上麻生村とともに中世には麻生(庄)と称していたと思われ、応永二一年(一四一四)七月八日の弾正忠某奉書(北和介文書)に「宇□郡御寺領麻生庄」とみえ、同庄内の漆垣畠地などが池永若狭守に打渡されている。

下麻生村
しもあそうむら

[現在地名]蒲生町下麻生

大塚おおつか村の南西日野川沿いに位置し、集落は同川右岸にあるが、村域は右岸の丘陵地に及び、南西は中山なかやま(現日野町)。当地から南下して山間を抜け、甲賀郡やま(現水口町)に通じる道は天神道ともいわれた。南東の上麻生村とともに中世麻生庄の遺称地。古く当地は下七板しもなないたとよばれていたと思われる。嘉暦四年(一三二九)九月一三日の円阿弥寄進状(山部神社文書)に「あさう御庄内、字名下七ゝいた」とみえ、天文期(一五三二―五五)までの諸史料に下七板の地名が散見する。元和四年(一六一八)旗本関領となり、同領で幕末に至る。近世の郷村帳類では上麻生村と合せて一村として高付され、寛永石高帳では麻生村として高一千七九石余、同じく慶安二年書上によると田八〇六石余・畑屋敷四六石余、永荒川欠天畑二二五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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