土浦城下(読み)つちうらじようか

日本歴史地名大系 「土浦城下」の解説

土浦城下
つちうらじようか

桜川下流の低地につくられた土浦城を中心とする城下町。現在の土浦市の中心市街地にあたる。

天正一八年(一五九〇)土浦は結城秀康領地となり、文禄四年(一五九五)三月に検地が実施され(「常陸国信太庄土浦村御縄打水帳(東崎分)」土浦市立図書館蔵)、その際、東崎とうざき町と中城なかじよう町が合併して土浦村となった。その後土浦藩領となり、寛永六年(一六二九)一〇月七日、西尾忠照によって検地が実施され(「常陸国信太庄土浦村之内東崎之帳」同館蔵)、再び土浦は東崎町・中城町に分けられた。この場合の東崎町・中城町は城下を大きく二分する総称で、城下の各町にも同名の町が存在していた。総称としての東崎町にはよこ町・町・なか町・ほん町・東崎町などが、中城町には中城町・田宿たじゆく町・おお町などが含まれていた。集落としては中城の成立が早く、やや遅れて東崎が誕生した。氏神は中城町が八幡神社、東崎町がわし神社で、中城町には豪族に関連した寺院が多い。

〔町の形成〕

城下の整備が本格的に開始されたのは、慶長六年(一六〇一)に始まる藩主松平信一・信吉の時代からで、信吉は水戸街道を城下に通し、同九年頃には沿道に町屋を設け、横町田町中町・本町・中城町・田宿町などの両側町が出来た。同一八年七―九月に、桜川に銭亀ぜにがめ橋、田宿町南門外のほり川に簀子すのこ橋、旧桜川に桜川橋(桜橋ともいう)が架設された(前沢家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報