南郷村(読み)なんごうむら

日本歴史地名大系 「南郷村」の解説

南郷村
なんごうむら

[現在地名]加賀市南郷町・吸坂町すいさかまち

大聖寺だいしようじ町の南東に続く村で大聖寺川と三谷みたに川により北と西を限られている。近世には「南江」(正保郷帳、「江沼志稿」など)の表記が一般化していた。大治二年(一一二七)八月日の江沼郡諸司等解(半井家本「医心方」巻二五裏文書)に「南郷司散位大江」がみえる。承元四年(一二一〇)九月日の後鳥羽院庁下文(関戸守彦氏所蔵文書)には「南郷内右庄」とある。これは後鳥羽上皇の近臣葉室宗行がみぎ庄を上皇の御願寺最勝四天王さいしようしてんのう(現京都市東山区)に寄進したものだが、同庄が南郷の郷域に含まれていたことがわかる。右庄は同文書により東は熊坂くまさか庄、北は福田ふくだ庄に接し、南は越前国境、西は海岸までなので、現在の三木みき町を中心にたちばな町・永井ながい町・奥谷おくのや町から大聖寺瀬越だいしようじせごえ町・塩屋しおや町までを含むと解され、南郷の郷域も一三世紀までは広くとらえられる。

南郷村
なんごうそん

面積:一九〇・二三平方キロ

東臼杵郡の中央南部に位置し、北は西郷さいごう村、南は西都市・児湯郡木城きじよう町、東は東郷とうごう町、西は椎葉しいば村に接する。村の中央を小丸おまる川が東流する。北はくま(一一二〇・一メートル)、西は丸笹まるささ(一三七四・五メートル)、南は空野そらんの(一一二六・八メートル)に囲まれて山深い。遺跡は小丸川流域に分布し、縄文時代の小又こまた遺跡・田爪たづめ遺跡・入田にゆうた遺跡、弥生時代の落原おちばる遺跡などがある。昭和一一年(一九三六)に県指定史跡となった南郷村古墳は二基あり、名木なぎにある百済から亡命した禎嘉王の墓と伝えられるものと、小路こうじにある禎嘉王を助けた豪族益田太郎の墓と伝えられるものである。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]大津市南郷一―六丁目・石山南郷町いしやまなんごうちよう

千町せんちよう村の南、瀬田せた川西岸に位置する。同川沿いに宇治路が通る。古代、滋賀郡古市ふるち郷の南に位置したことから地名があるという。建久八年(一一九七)一一月の石山寺寺辺南郷検畠目録(石山寺文書)に「南郷」とみえ、寺辺てらべと併せ石山寺領であった。同月二六日の石山寺領検田帳(同文書)には二条五里・三条二里・同三里に大きく分け、一筆ごとに地積と名を記す。寛正六年(一四六五)南郷の林崎という地一段(得九斗五升)が現銭九貫五〇〇文で南郷弥太郎(国重)に売られている(同年八月一五日「須佐美康継売券」醍醐寺文書)

南郷村
みなみごうむら

[現在地名]豊野町大字南郷

豊野とよの町の西南。東はあさ川の中央をもって赤沼あかぬま村、南は田子たこ川中央をもって三才さんさい村、西はよし(以上現長野市)、北はいし村に接する。村の西は山地、東・南・北に平地が開ける。東方は浅川・田子川・くま(隈)とり川が雨で出水すると冠水地帯となる低地である。西南三才村境から東北の石村境にかけて谷筋道(飯山道)が通じ、これに沿って山際に集落が存在する。

中世、太田おおた庄の一郷「石村南郷」として鎌倉時代から開け、嘉禄三年(一二二七)一〇月、島津忠時(忠義)に対する地頭職安堵の将軍家(頼経)下文(島津家文書)に「信濃国太田庄小島・神代・石村南・津乃已上四箇郷地頭職事」とみえるのが初見である。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]広陵町大字南郷なんご

古寺こでら村南方、葛城川西岸の環濠集落。旧広瀬郡北郷(現河合町内)に対する南郷である。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)にも「広瀬郡南郷廿一条三里九坪 限東畔、限南畔、限西畔、限北畔、□屓所者長谷寺灯油免也」と記す。

慶長郷帳にみえる村高は一〇八九・二九六石。江戸時代初期は幕府領(代官北見勝忠)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領。その後同藩の二割半無地高増政策で村高は一四八六・六二石となる。享和三年(一八〇三)の郷帳では南郷北村(五一五・三七石)と南郷南村(九七一・二五石)に村高を分けており、寺之垣内てらのかいと庄之垣内しようのがいと小路垣内しようじがいと田井中村たいなかむら三在家さんざいけ村のほか市場いちば村がみえる。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]山内村南郷

あさひ(現横手川)の上流にあり、南に三又みつまた村、西にいかだ村、北は山を隔てて黒沢くろさわ村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一六〇石とある。宝永二年(一七〇五)の平鹿郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高一七八石九斗一升三合で、本田の免は六ツ、新田の免は六ツと五ツとあり、寛政六年(一七九四)には当高一七四石六斗八升八合(六郡惣高村附帳)、明治五年(一八七二)には当高一七九石六斗四升七合(「上下掠御ケ所之届書」山内村郷土資料)と変化が少ない。

享保期(一七一六―三六)の枝郷は大平おおひら村一六軒、甘池あまいけ村一軒、南江なんごう村一〇軒、上村七軒、中嶋村五軒、三ッ屋みつや村六軒、杉村八軒、中嶋(ママ)村三軒、旗南江はたなんごう村一一軒、雄勝川おかつかわ村一〇軒、しよカイ村二軒、まるシダ村一〇軒、粕子瀬かすこぜ村二軒があり、家数は九一軒を数えたが、文化一二年(一八一五)には六五戸に減じ(秋田風土記)、明治五年には七四戸となった(上下掠御ケ所之届書)

南郷村
なんごうむら

面積:一一九・四七平方キロ

南会津郡西部のほぼ中央にあり、伊南いな川の中流に位置する。北・西は只見ただみ町、南は伊南村、東は田島たじま町・大沼郡昭和しようわ村に接する。国道二八九号が伊南川に沿って通り、山口やまぐちで東に折れ、駒止こまどトンネルを抜けて田島町へ通ずる。東西の村境には標高一〇〇〇メートル級の山々がそびえる。伝上でんじよう山の南麓には宮床みやとこ湿原が広がる。

南郷村
なんごうむら

面積:九一・〇二平方キロ

三戸郡の東南部に位置し、東は階上はしかみ町、西は名川ながわ町、北は八戸はちのへ市・福地ふくち村、南は岩手県九戸くのへ軽米かるまい町に接する。北上きたかみ山地の末端に連なる丘陵地に立地し、ほとんどが山地であるが、階上町境には新井田にいだ川が北流し、周囲にわずかながら低地をつくりだしている。地形上東部の新井田川の河谷に発達した島守しまもり地区と西部の丘陵地に発達した中野なかの市野沢いちのさわ地区に二分される。村の西部を南北に国道三四〇号が縦断し、八戸市と軽米町を結び、同じく階上町境を久慈くじ街道が縦断し、八戸市と九戸郡軽米町・大野おおの村を結ぶ。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]浅井町南郷

東主計ひがしかずえ村の東、草野くさの川左岸に位置。立石たていしの条里立石(高さ一四七センチ、幅五六・五センチ)は九条と十条の境、二里と三里の境の十字点に立つものとされる。高山たかやまにある上許曾かみこそ神社の嘉慶元年(一三八七)一〇月九日銘の鐘に「南郷神主二人藤原盛□、藤原盛光」とある。寛永石高帳によれば高三〇四石余で、小堀遠州領(幕府領か)元禄郷帳では旗本小堀政尹家と小室藩の相給。天明村高帳によれば高のうち二九九石余が小堀政尹領、五石余が小室藩領。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]御所市大字南郷

金剛山地東麓、傾斜面に立地。東は西持田にしもつた村。応永二五年(一四一八)の吐田庄注進文(春日神社文書)には「ミナミサト」と書く。伴田はんだ庄南端に位置。慶長郷帳では御所藩(桑山元晴)領。村高六一六・六八石。寛永六年(一六二九)御所廃藩により幕府領。同一六年郡山藩(郭住、本多勝行)領。延宝七年(一六七九)再び幕府領。

集落西部の住吉神社北に竹林山鶏足けいそく寺と称する小庵があり、寺伝(米田家系図)によれば、弘仁年間(八一〇―八二四)空海の創建にかかり、鶏足山宝林ほうりん寺と名付けられたが、正平三年(一三四八)兵火により焼失、越智愛政が再興したがいつしか廃絶。

南郷村
なんごうむら

[現在地名]松崎町南郷

明伏あけぶし村の西、那賀なか川中流左岸に位置する。村名は那賀(中村)の南にあるので名付けたもので、もとは一村と思われる(増訂豆州志稿)。八幡神社の永正九年(一五一二)一一月の棟札には「那賀郷長尾村」とあるが、これは当村のことであろう。同社にはほかに天文二一年(一五五二)一一月の棟札がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報