谷田部町(読み)やたべまち

日本歴史地名大系 「谷田部町」の解説

谷田部町
やたべまち

面積:七九・五四平方キロ

豊里町の南に位置。筑波稲敷つくばいなしき台地の一画を占める。西限は小貝こかい川。町域に水源をもつ小野おの川が東南に流れるほか、大穂おおほ町より南流する蓮沼はすぬま川が東谷田ひがしやた川に合流し、その西方には西谷田にしやた川が東谷田川に並行して流れる。これらの河川流域に水田が集中し、その多くは標高二〇―二五メートルの微高台地。

明治二二年(一八八九)四月一日の町村制施行により筑波郡東丸山ひがしまるやま村・谷田部町・羽成はなり村・花島はなしま新田・上萱丸かみかやまる村・下萱丸村・飯田いいだ村・中野なかの村・西栗山にしくりやま村・片田かただ村・根崎ねさき村・古館ふるだて村・境田さかいだ村・境松さかいまつ村が合併して谷田部町、真瀬ませ村・鍋沼なべぬま新田・高須賀たかすか村・高良田たからだ村などが合併して真瀬村、高田たかた村・島名しまな村・水堀みずぼり村・おも村・中別府なかべつぷ村・下別府しもべつぷ村・おにくぼ村・下河原崎しもかわらざき村・上河原崎村が合併して島名村新治にいはり苅間かりま村・根崎ねざき村・東平塚ひがしひらつか村・西平塚村・下平塚しもひらつか村・西大橋にしおおはし村・新井あらい村・大白硲おおじらはざま村・たいら村・柳橋やぎはし村・山中やまなか村・しま村・西岡にしおか村・小白硲こじらはざま村および河内かわちはら村が合併して新治葛城かつらぎ村、河内郡北中島きたなかじま村・稲岡いなおか村・赤塚あかつか村・下原しもはら村・新牧田あらまきだ村・梶内かじうち村・中内なかうち村・館野たての村・まつ村・小野崎おのざき村・西大沼にしおおぬま村・上原村・手代木てしろぎ村・上横場かみよこば村・今泉いまいずみ村・榎戸えのきど村・北中妻きたなかづま村・南中妻村下横場村いちだい村が合併して小野川おのがわ村が成立。

谷田部町
やたべまち

[現在地名]谷田部町谷田部

小白硲間こじらはざま村の南に所在。江戸時代には東谷田ひがしやた川東岸台地上の台町だいまち村と、東谷田川・西谷田川に挟まれた台地上の内町うちまち村・新町しんまち村に分れていた。町域の福田ふくだ遺跡は集落跡で縄文中期・後期の土器、石棒・石斧・石鏃・石皿・独鈷石などが出土。台成井だいなるい遺跡は集落跡で縄文中期の土器が出土。福田前ふくだまえ遺跡は集落跡で縄文中期・後期の土器・土師器が出土。福田坪池の台ふくだつぼいけのだい遺跡は集落跡で縄文中期・後期の土器が出土。台町古墳群は円墳四基・方墳一基からなる。

和名抄」の河内かつち八部やたべ郷の中心といわれ、二之丸坪にのまるつぼ一帯には谷田部城が築かれた。永禄七年(一五六四)のものと思われる小田氏治味方地利覚書(上杉家文書)に「一 やたへ、同とうりんち おかミのたんちやう、こんとうちふ」とあり、小田氏与党の岡見氏などの在城が知られる。元亀―天正(一五七〇―九二)の谷田部城は下妻城主多賀谷氏の支配下に置かれたが、多賀谷勢と岡見氏の間に攻防戦が続いた(関八州古戦録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android