加茂郡(読み)かもぐん

日本歴史地名大系 「加茂郡」の解説

加茂郡
かもぐん

面積:六一五・二八平方キロ
富加とみか町・坂祝さかほぎ町・川辺かわべ町・七宗ひちそう町・八百津やおつ町・白川しらかわ町・東白川ひがししらかわ

県の南東部にあり、現郡域は美濃加茂市によって、西側の北に富加町、同じく南に坂祝町と、東の四町一村の三地区に分断されている。東部を南西流してきた飛騨川は、郡域南端を西流してきた木曾川に美濃加茂市内で合流し、さらに郡域南端を西流し、日本ラインの景勝を作り出している。飛騨川以東は飛騨山脈に連なる険峻の地であるが、西には肥沃な平野が開ける。北西端の富加町は北と西を関市に、南と東は美濃加茂市に囲まれる。南西端の坂祝町は西を関市と各務原かかみがはら市、南は愛知県犬山市と可児かに市、東と北を美濃加茂市に接する。東部の広い地域は西は武儀むぎ郡と美濃加茂市、北は益田ました郡、東は恵那郡、南は恵那市・瑞浪みずなみ市・可児郡に接する。交通の要衝である美濃加茂市を中心に国道二一号・同四一号・同二四八号・同四一八号などが四方に通じる。木曾川・飛騨川の沿岸は飛騨木曾川国定公園に含まれている。

〔原始〕

遺跡は木曾川と飛騨川の河岸段丘上と標高四〇〇メートル以上の高地に分布する。最古のものは標高一二〇メートルの木曾川河岸段丘上にある八百津町定屋敷さだやしき遺跡で、信州ローム層下、洪積層上にある炉跡である。同じ河岸段丘上にある八百津千鳥崎ちどりざき遺跡で石刃が採集されている。標高四〇〇メートルの久田見くたみ高原の越水こしみず遺跡では先土器時代の遺物が採集されている。八百津町より上流にあたる白川町・東白川村で採集されるのはほとんどが縄文時代の遺物で、弥生時代のものはきわめて少ない。八百津町より下流にあたる川辺町は縄文・弥生時代の遺跡は少なく、古墳の数が多い。その下流地域は肥沃な平野地帯で、弥生時代の遺跡が多く、また古墳も多い。とくに富加町は古墳が四七基もあり、また郡内の他地域にはみられない全長四〇メートルの夕田茶臼山ゆうだちやうすやま古墳をはじめとする前方後円墳が三基以上存在する。また東山浦ひがしやまうら遺跡は大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)にみえる半布はにゆう里との関連が指摘されている。古墳時代後期になると、古東山道の沿線上に祭祀的遺物が多くみられ、郡内ではそのほとんどが八百津町八百津地区に集中している。東山道の木曾川渡河地点をここに求め、単なる川神祭祀というだけではなく、大和政権との関連において理解しようとする説がある。

〔古代〕

大宝二年の御野国戸籍に「加毛郡半布里」の戸籍が残る。半布里は現在に残る地名や古墳・条里遺構の分布状況などから、「和名抄」の埴生はにゆう郷に継承され、現富加町羽生はにゆうを遺称地とするとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報