吉田新田(読み)よしだしんでん

日本歴史地名大系 「吉田新田」の解説

吉田新田
よしだしんでん

[現在地名]田上町吉田新田

地籍は羽生田はにゆうだ村・河舟川かわふねがわ村・坂田さかた村に隣接して飛地状にあり、集落は北から下吉田しもよしだ清水沢しみずざわ・上吉田に分散。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「神保知行 よし田村・河ふね川村」とみえるが、村の開発が大規模に行われたのは近世初期で、元禄一一年(一六九八)の賀茂組新田村付帳(新発田市立図書館蔵)によれば、羽生田村の地内を正保五年(一六四八)開発立村したという。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば加茂組大庄屋吉田間兵衛の支配で、物成高三六石余、家数三五・人数二三五となっており、村名は開発者の名によるとみられる。

吉田新田
よしだしんでん

[現在地名]味方村吉田新田

なかくち川左岸の自然堤防上の村落。北は山王さんのう興野村、南は吉江よしえ村に接する。元禄郷帳によれば、井栗いぐり(現三条市)枝郷とある。村名の吉田新田は吉江新田と同じとみられるが史料により違いがある。初め新発田藩領で寛永五年(一六二八)に三分家の一つ切梅家の知行地となり、三五石三斗余で小吉島組に属した(「御知行所草高之御帳」新発田市立図書館蔵)。次いで正保二年(一六四五)の三分家の知行地の再配分でも変化はなかった(「三分家知行目録」同館蔵)正保国絵図でも吉江新田三五石余とあり、新発田藩領。

吉田新田
よしだしんでん

[現在地名]兵庫区吉田町一―三丁目・浜山通はまやまどおり五―六丁目・遠矢浜町とおやはまちよう遠矢町とおやちよう一―二丁目・吉田新田

御崎みさき村の南西和田わだ岬の西に続く海辺に位置し、もと東尻池ひがししりいけ(現長田区)地内を開拓した新田村。西宮町の吉田氏が開墾し、天保一二年(一八四一)幕府代官の検地を受けて吉田新田として成立(「吉田新田誌」八部郡地誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「吉田新田」の意味・わかりやすい解説

吉田新田 (よしだしんでん)

武蔵国都筑郡の新田。現在の横浜市中区伊勢佐木町あたりはかつて釣鐘形の入海であったが,これを干拓してつくられた。開発にあたった摂津国出身で1611年(慶長16)生れの吉田勘兵衛は,34年(寛永11)江戸に出て木材石材商を営んだという。56年(明暦2)開発に着手するが,翌年大雨で潮除堤が決壊して失敗,59年(万治2)再度着手し,67年(寛文7)に完成。工事の要点は,(1)釣鐘頭部に流れてくる大岡川を二つに分けて釣鐘の両側回し,(2)海に接した部分に潮除堤を築き,(3)中央部に水路を設けることで,74年(延宝2)の検地で高1038石とされる新田ができた。なお2度目の工事には数人の出資者(いずれも町人らしい)がおり,彼らにも耕地が配分されたが,後に勘兵衛が買い集めている。また吉田新田と呼ぶようになったのは1669年4月からのようである。
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