加茂町(読み)かもまち

日本歴史地名大系 「加茂町」の解説

加茂町
かもまち

面積:三〇・九一平方キロ

大原郡の最北端に位置し、東は大東だいとう町、南は木次きすき町、西は飯石いいし三刀屋みとや町・出雲市・簸川ひかわ斐川ひかわ町、北は八束やつか郡宍道町に接する。町の中央を国道五四号が縦貫し、JR木次線が町の東を走り、加茂中駅がある。斐伊川は西の町境を流れ、この川に注ぎ込むあか川が町の中央を東から西へ流れ、支流と合流しながら斐伊川に注ぎ込んでいる。赤川の流域は丘陵性の花崗岩で、この周辺に中心的集落を形成している。山林が五割、田畑が三割の農山地域であるが、近年は松江市へ三〇分、出雲市へ二五分、広島市へ三時間の距離になり、出雲市・松江市のベットタウンとしての役割をもつようになった。

考古遺跡は赤川流域に点在しており、縄文時代の石器は発見されていないが、弥生時代の土器は五ヵ所から発見されている。古墳は神原かんばら神社境内などから七基が発見されており、なかでも神原神社古墳は竪穴式石室で、その内部から「景初三年陳是作」の文字が書かれた三角縁神獣鏡が発見された。これは景初三年(二三九)中国の魏王から邪馬台国の女王卑弥呼に青銅鏡一〇〇枚が下賜されたうちの一枚ではないかとされている。

加茂町
かもちよう

面積:一五九・五三平方キロ

苫田郡の北東部に位置し、東は阿波あば村・鳥取県八頭やず智頭ちず町、西は上齋原かみさいばら村・鏡野かがみの町、南は勝田かつた勝北しようぼく町・津山市、北は鳥取県八頭郡佐治さじ村に接する。JR因美線が津山市を経て、南から北東に向けて加茂川に沿って町内を走り、智頭町に至る。加茂川は総延長二六キロで、加茂町から南流して津山市川崎かわさきで吉井川に合流する。北の阿波村から南流する阿波川と、東の物見ものみから西流する物見川が合流して加茂川となり、南西に流れる。小中原こなかばら付近で倉見くらみから南流する倉見川を合せて南流し、さらに下津川しもつがわ国有林に源を発した津川川を合せる。これらの河川に一一本の小河川が合流し、その流域に大小の耕地が開け、なかでも小中原の合流点流域には中心的な穀倉地帯が展開する。倉見川には昭和四二年(一九六七)多目的ダムの黒木ダムが完成した。

現在の加茂町は昭和一七年に成立するが、その前身の町村名のもととなったのは古代の苫東とまひがし賀茂郷(和名抄)で、室町時代の史料にも賀茂郷・北賀茂庄・南賀茂がみえ、加茂川と倉見川の合流する塔中たつちゆう付近一帯に推定される。

加茂町
かもちよう

面積:三六・一三平方キロ

相楽郡のほぼ中央に位置し、東・北は笠置かさぎ町・和束わづか町、西北は山城やましろ町、西は木津きづ町、南は奈良市に接する。東部は笠置山系、北部は鷲峰山じゆぶせん系、南・西部は奈良山ならやま丘陵に囲まれ、町域内で南流する和束川と北流するしん川・赤田あかだ川を合した木津川は中央部を西流し、その両岸に平地が開ける。相楽郡東部の水陸交通の接点として古くから発達し、商業地が形成された。現在は木津川南岸を国鉄関西本線が、北岸を国道一六三号が東西に貫通し、ほぼ南北に府道奈良―加茂線、水口みなくち―木津線(旧信楽街道)が通っている。

加茂町
かもちよう

[現在地名]北方町加茂

加茂村の西端部に位置し、糸貫いとぬき川沿いの集落。加茂町取立一件覚書(堀部文書)によれば、元禄年中(一六八八―一七〇四)連年の凶作で村勢不振のため、加茂村百姓などの要請により、仏生寺ぶつしようじ(現糸貫町)清右衛門ほか五名は同一六年領主の許可を得、宝永元年(一七〇四)桑山智勝くわやまちしよう(現同上)所有の糸貫川東岸の新畑で、根尾ねお街道沿いに新屋敷町構を形成した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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