羽生田村(読み)はにゆうだむら

日本歴史地名大系 「羽生田村」の解説

羽生田村
はにゆうだむら

[現在地名]壬生町羽生田

上稲葉かみいなば村の北、くろ川左岸の台地上に立地し、北東中泉なかいずみ村、南西七ツ石ななついし村。南西部を壬生通が通る。もと七ツ石村と一村で、承応三年(一六五四)に分村したという。茶臼山ちやうすやま古墳長塚ながつか古墳などの前方後円墳を含めて二八基の古墳が確認され、埴輪を多量に出土している。天正一三年(一五八五)と推定される四月二九日の平塚左近太夫宛宇都宮国綱書状(阿呆文書)に「不経数日壬・鹿・羽三ケ城炉ニ被成置」とある「羽」は羽生田城をさすと考えられる。慶長七年(一六〇二)日根野吉明が壬生城に入り、当村もその領地となる。

羽生田村
はにゆうだむら

[現在地名]田上町羽生田

原崎はらがさき新田の南に位置し、あずま下村しもむら松葉まつば中村なかむら八幡やはたの各集落からなる。

慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に「羽生堂村」二六〇石三斗八升とあり、同五年の御知行方田畠帳(同資料)によれば「羽丹生堂村」田方二二町四反余・畠方一〇町九反余、物成は田方一〇七石一斗余・畠方二六石六斗余、ほかに慶長四年水入開分として一町四反余に反別七斗五升が課されている。同一七年の御蔵納同払方帳(同資料)にも村名がみえる。寛政五年(一七九三)の加茂組明細帳(古川渙一郎氏蔵)によれば、田方五五町九反余・畑方二二町七反余、現石三九四石余、家数九〇・人数四六六、馬三、山伏二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報