フン(読み)ふん(英語表記)Hun

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フン」の意味・わかりやすい解説

フン
ふん
Hun

4世紀、ヨーロッパに侵入した北アジアの遊牧騎馬民。その名は170年に記されたギリシアの地理学者プトレマイオスの書にもみえ、当時彼らがドン川とボルガ川との間に住み、その後続部族はシルダリヤ近隣にいたことがわかる。4世紀の中ごろから西方へ移動し始め、ドン川東岸のアラン人を併合し、374年ドン川を渡って東ゴート王国を攻め滅ぼし、ついでドニエステル川を渡って西ゴートを破り、これらの諸族を併合したが、西ゴート人の一部はローマ帝国に請い、トラキアに入居した。これは後の民族大移動の原因となった。フン王ウルディスの時代、彼らはドナウ川を渡ってブルガリアに入ったが、ローマ帝国は彼らを懐柔し、フン人はローマ軍の傭兵(ようへい)として働いた。アッティラがフン王となると(434)、西ローマ帝国への侵入を開始、ライン川を渡って北フランスに軍を進め、451年カタラウヌム平原で、西ローマ軍と激戦が行われた。勝利を得なかったアッティラは一時パンノニアに帰り、翌年イタリアに転進、ローマに迫ったが、教皇レオ1世の説得をいれ、パンノニアに帰り、453年に死んだ。彼の死後は子孫の間に争いが絶えず、カスピ海よりライン川にまたがるフンの大王国は分裂、微弱化し、ブルガール人、アバール人に吸収混融し去った。フン人とモンゴルに繁栄した匈奴(きょうど)とが同族ないしはその子孫であろうとの学説は、遊牧を基礎とする生活様式、風習、遺物形式、匈奴の西方移動とフンの中央アジア出現時期の合致、その使用言語の同一(古代トルコ語)のほか、中国の『魏書(ぎしょ)』がアッティラやその子孫のフンのことを匈奴と記していることなどから主張されている。少なくとも巨視的にみて、両者が同一系統の民族であることは疑いない。

[内田吟風]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「フン」の意味・わかりやすい解説

フン

中央アジアの騎馬民族。トルコ系,モンゴル系,あるいはその混成ともいわれる。匈奴(きょうど)と同一かは不明。4世紀から西進を始め,東ゴートを服属させ,西ゴートを追って民族大移動の発端をつくった。5世紀半ばアッティラのもとで大帝国を建設。ガリア,イタリアに侵入したが,アッティラの死とともに大帝国は瓦解。以後ドナウ川中流域に退き,アバール族やマジャール人と同化。ハンガリー(フンガリア)の名はフンに由来する。
→関連項目カタラウヌムの戦ゲルマン人テオドシウス[2世]ブルグント

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

精選版 日本国語大辞典 「フン」の意味・読み・例文・類語

フン

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

世界大百科事典内のフンの言及

【匈奴】より

…一方,北匈奴は鮮卑・丁零族に攻撃され,かつしばしば後漢の遠征軍に撃破されたので,91年オルホン河畔の根拠地をすてイリ地方に移り,半世紀間タリム盆地の支配権を後漢と相争ったが,2世紀の中ごろキルギス地方に西遷し,以後中国の史上よりその消息を絶った。4世紀にヨーロッパに侵攻したフンはこの北匈奴の子孫であろうと考えられているが,まだ定説ではない。しかし,北匈奴のモンゴリア退去とフンのヨーロッパ出現の時期的一致,両者の習俗の同一などのほか,両者の使用言語がともにチュルク語であること,両者の遺物がきわめて類似の様式をもつものであること,匈奴という文字は昔フンに近い音をあらわす文字であったと考えられるばかりでなく,五胡十六国時代の匈奴を当時のソグド商人がフンと呼んでいたことなどに徴して,少なくとも匈奴とフンとは密接な関係にあるものと考えられる。…

※「フン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

サルノコシカケ

サルノコシカケ科やその近縁のキノコの総称。日本では4科約40属300種が知られ,ブナ林に日本特産種が多い。樹木の幹につき,半円形,木質で厚く堅く,上面には同心円紋があるものが多い。下面には無数の穴があ...

サルノコシカケの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android