ゲルマン人
げるまんじん
Germanen ドイツ語
インド・ヨーロッパ語族のうちゲルマン語派に属する言語を話す民族の総称。現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などがこれに属するが、これら民族の祖先と考えられる、民族大移動以前の古ゲルマン人をさす場合が多い。ユトランド半島とそれに隣接する北および北ドイツ、スカンジナビア半島の中・南部が、紀元前二千年紀中葉のゲルマン人の原住地と考えられるが、前一千年紀の中葉ないし前3世紀ごろまでに、西方ではオランダからライン川下流域まで、東方ではウィクセル(ビスワ)川流域から、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの三つのグループを形成するようになった。
カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』など古典古代の叙述家たちの記録により、紀元前後のゲルマン人の社会構造や政治組織について、若干具体的に知ることができる。このころゲルマン人がすでに定着農耕を営んでいたことは疑問の余地がないが、農耕とともに牧畜の占める比重がかなり大きかったと考えられる。階層的には自由人、半自由人、奴隷に分かれ、自由人の上層部は政治的特権と大土地所有を基礎にして、豪族層を形成していた。政治的には、キーウィタースとよばれる小単位に分かれ、キーウィタースはさらに1ないし数個のパーグスに分かれていた。キーウィタースの上にゲンス(部族)とよばれる組織体があったが、タキトゥスの時代にはこれは政治上の単位ではなく、一種の祭祀(さいし)団体であったと考えられる。キーウィタースの政治体制は、まだかなり強く原始民主制の名残(なごり)をとどめており、全自由民の構成する民会が戦争、平和などの重大事項を決定したが、他方、豪族層への政治権力の集中化も相当進んでいた。世襲王制をとるキーウィタースと、民会で選出されるプリンケップスに統治されるキーウィタースとがあったが、後者の場合も、プリンケップスに選ばれるのは豪族に限られ、両者の相違はそれほど大きなものではなかった。
4世紀以降フン人の西進による圧迫に触発されて、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国するが、その過程で軍事指揮権を中核とした王権の強化・確立と、政治単位としての新しい部族形成が行われた。民族移動期に登場する、フランク、バンダル、東・西ゴート、ランゴバルドなどの部族は、いずれもこのような新しく形成された部族である。
[平城照介]
『タキトゥス著、泉井久之助訳註『ゲルマーニア』(岩波文庫)』▽『カエサル著、近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫)』▽『増田四郎著『西洋封建社会成立期の研究』(1959・岩波書店)』
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ゲルマン人【ゲルマンじん】
ゲルマン語を話す諸民族。先史時代,歴史時代初めにゲルマン語を話す部族および部族連合があり,これらを原始ゲルマン人と呼ぶが,中世初期に再編され発展して現在のヨーロッパ人を構成するゲルマン諸民族が生まれた。原始ゲルマン人は,東(ゴート族,バンダル族,ブルグント族,ランゴバルド族),西(アングル族,サクソン族,フリース族,カッティ族),北ゲルマン(ノルマン人)に大別される。ゲルマン人の原住地はスカンジナビア〜バルト海沿岸で,前3千年紀には新石器の段階に入り,次第に先住ケルト人等を圧迫しつつ南下,前2世紀からローマ領に侵入。やがて4世紀後半からフン族の圧迫を受けて各地に移住,建国した(民族大移動)。人種的特徴としては長身,金髪,空色の目,白い皮膚など。原始ゲルマン人は土地共有制を実施し自給自足的村落を形成。好戦的で,自由民と奴隷とに分かれ,少数が貴族を構成。霊魂崇拝・自然崇拝が行われ,神は森の中に求められた。またゲルマン神話と総称される世界創造神話,善悪両神の闘争神話,オーディン神を中心とする巨人・小人の信仰をもつ。→ゲルマン語派
→関連項目アングロ・サクソン人|ゲルマニア|チュートン人|ドイツ|フランク|ルーン文字
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ゲルマン人
ゲルマンじん
Germans
インド−ヨーロッパ語族中の一民族
原住地はスカンディナヴィア半島南部より北ドイツにかけてのバルト海沿岸地方と考えられるが,一部はケルト・イリリア諸族を圧迫しつつ南下し,紀元前後にはローマ帝国と接触するに至った。当時は多数の部族国家に分かれていたが民族大移動期までにはやや大きないくつかの種族を形成していた。言語的に東ゲルマン(ヴァンダル・ブルグント・東ゴート・西ゴート),西ゲルマン(アングロ・サクソン・アラマン・フランク),北ゲルマン(デーン・ノルマン)に三大別され,民族大移動後,各地に分散して王国を建てた。移動前のゲルマン社会は,タキトゥスやカエサルによれば,農耕・牧畜・狩猟によって生活を営み,貴族・平民・奴隷の身分制があった。またいくつかの氏族が集合して国家(キヴィタス)を構成し,その最高決定機関は民会であった。
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ゲルマン‐じん【ゲルマン人】
〘名〙 ゲルマン民族に属する人々。ゲルマン。
※大増補改訂や、此は便利だ(1936)〈下中彌三郎〉「ゲルマンじん Germans 人 アリアン人種の一支族、主として西欧地方に分布し、其気風習俗はスカンヂナヴィヤ半島、及びイギリス、ドイツ等に伝はる」
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ゲルマンじん【ゲルマン人 Germanen[ドイツ]】
インド・ヨーロッパ語族に属する言語を用いる群小部族集団の総称。言語系統としては,ケルト人やイタリキと親近関係にあるともされている。ゲルマンという呼称の由来は不詳であるが,この語が文献上最初にあらわれるのは,前80年ころ,ギリシアの歴史記述家ポセイドニオスが,前2世紀末におけるゲルマンの小部族,キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリアへの侵寇を叙述した記録においてである。もっともそれ以前,前4世紀の末に,マッシリア(マルセイユ)にいたギリシア人航海者ピュテアスが,ノルウェーやユトランド半島に出向いた際の記録の一部が残っているが,そこではまだそこに住んでいた民族について,ゲルマンという呼称は使われていない。
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世界大百科事典内のゲルマン人の言及
【ゲルマニア】より
…ガリア北東部のライン左岸,ラインラントのローマ化はカエサルによる占領に始まった(前58‐前51)。ラインラントからベルギーにかけては,トゥングリ,トレウェリおよびネルウィイなど,ケルト人と混血した〈ライン左岸のゲルマン人Germani cisrhenani〉が定住し,アルザスからブルゴーニュ東部では,ヘルウェティイ,ラウラキおよびセクアニなどのケルト人に占められていた。皇帝アウグストゥスのガリア行政区の設定(前16)では,属州ゲルマニアはいまだ存在しないが,彼の軍事行動はライン川を越えてエルベ川まで延び,兵站(へいたん)基地のラインラントのローマ化を促した。…
【チュートン人】より
…狭義には古代ゲルマン人の一派テウトネス族Teutones,Teutoniをいう。彼らはユトランド半島に住んでいたが,浸食や高波による土地荒廃のため,隣接するキンブリ族Cimbriとともに南方移動を開始,前110年ころまでにはヘルウェティイ族Helvetii(スイス中部に住んでいたケルト系部族)の一部も加えてライン川に達し,ガリアへ侵入した。…
【闘斧】より
…これらの文化では,農耕とともに牧畜が盛行し,車と馬を伴うなど共通するところが多く,闘斧文化の名称で統括されることがある。この闘斧文化は,とくに両次大戦間の時期における研究で,ゲルマン民族(ゲルマン人)との関連が説かれ,その起源とヨーロッパにおける拡散の問題を論ずる際の重要な拠りどころとなり,大いに関心をひいた。 石製闘斧以後も,ヨーロッパでは実用または儀仗用の,青銅あるいは鉄製の闘斧の製作使用が続けられ,中世フランク族の用いた鉄製闘斧フランシスクfransiskに連なり,さらには闘斧と槍先とが結合した形状をとる武器アラバルダalabardaは,ローマ教皇の護衛兵の儀器として現在も使われている。…
【民族大移動】より
…通常〈民族大移動〉という場合,それは黒海北岸にいたゲルマン系のゴート族が,4世紀後半,西進して来たフン族に押され,376年,西ゴート族がドナウ川を渡って初めてローマ帝国領に移住したのをきっかけに,ライン川,ドナウ川などローマ帝国の国境線の北東方一帯にいたゲルマン人の諸部族が,相次いで移動を開始し,とくに東ゲルマンに属する諸部族が西ローマ領内深く移住・定着して,各地にそれぞれの部族国家を建設したほぼ6世紀末に至る二百数十年間の過程のことである。 しかし世界史的にみると,あたかもこの時代は,東西両洋にわたり,巨大な世界帝国の統一が動揺・破綻し,辺境にいた素朴な異民族が,古代的な高度文明社会の内部に侵入し,あるいはその影響を受けて周辺で新しい国家をつくるなど,文化史的にも政治史的にもきわめて類似した注目すべき現象のみられる時代に当たる。…
【もてなし】より
…アイルランド,スコットランドは教会,修道院が旅客専用の建物tech‐óiged(tech=taigeは〈家〉,óigedは〈客〉の意)をもって見知らぬ旅人に食事とベッドを供したが,これも16世紀にヘンリー8世の修道院領没収によって終わった。 ホスピタリティにあたるドイツ語Gastfreundschaftが示すようにゲルマン人の客もてなしは名高い。〈どんな目的でやって来た者にでも乱暴は控えて,神聖なものとしている。…
【領主制】より
…近世以降は,君主のもとへの権力の集中に伴い,支配の最下部機構としての領主制の重要性は薄れるが,それはけっして自由な契約関係に基づく単なる地主・小作制度ではなく,農民の身分的隷属性を前提とした一つの支配形象としての意味は引き続き維持された。【山田 欣吾】
[中世初期]
民族大移動によってヨーロッパの支配者となったゲルマン人は,すでに長期にわたって接触していたローマ人と,根底的に相いれない社会構造を示してはおらず,家内奴隷などのかたちで階層分化を進めていた。ローマ人のもとでは奴隷制が解体の道を歩んでおり,大所領でも,土地を与えられるなどのかたちで,自立性を確保しつつあった労働力が増加していた。…
※「ゲルマン人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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