フン族(読み)フンぞく(英語表記)Hunnen

精選版 日本国語大辞典 「フン族」の意味・読み・例文・類語

フン‐ぞく【フン族】

〘名〙 (フンはHun) アジア系の騎馬遊牧民。中央アジアのステップ地帯で活躍。四世紀後半に西進して、民族大移動の端を開いた。五世紀半ばのアッチラ王のとき黄金時代を迎え、ヨーロッパ各地を含む帝国をつくったが彼の死後瓦解。匈奴同一かどうかは不明。

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デジタル大辞泉 「フン族」の意味・読み・例文・類語

フン‐ぞく【フン族】

Hun》北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯にいたが、4世紀中ごろから西へ移動を始め、東ゴート族西ゴート族を圧迫し、ゲルマン民族大移動原因となった。5世紀中ごろ、アッティラ王の時代が全盛期で、王の死後急速に衰えた。匈奴きょうど同族ともいわれるが不明。フン。

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改訂新版 世界大百科事典 「フン族」の意味・わかりやすい解説

フン族 (フンぞく)
Hunnen

内陸アジア・ステップ地帯の遊牧騎馬民族。民族の系統は不明の点が多いが,トルコ・モンゴル系の民族が中核となり,これに種々の民族が包括されたものと考えられる。中国古代史に登場する匈奴の一部が西遷したものの後裔であるか否かは,長いあいだ論争の的となってきたが,現在もまだ決着がついていない。2世紀以降,中央アジアよりしだいに西進して,ヨーロッパ方面に移動し,350年ころにはサルマート系アラン人を支配下に収め,375年ころにはボルガ流域の東ゴート族を征服,これに隣接する西ゴート族を東ローマ領内に追った。いわゆるゲルマン人の民族大移動一因は,このフン族西進の圧力であるとされる。

 その後フン族はハンガリー平原を制圧,ここを根拠に東・西ローマ領内に侵入を繰り返していたが,445年,アッティラがフン族全体に支配権を確立した結果,黒海からライン河畔に広がるフン帝国が出現した。彼はさらにガリア征服を企てたが,西ローマの将軍アエティウスは,フランク族ブルグンド族,西ゴート族の援助をうけて,451年,侵入したフン族をカタラウヌムの戦で撃退した。アッティラは翌年にもイタリアに侵入,依然としてヨーロッパに脅威を与えたが,453年,彼が急死すると,内紛と支配下諸民族の反乱により,フン帝国は急速に瓦解した。彼の死については,新婚の妃による暗殺説もある。
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旺文社世界史事典 三訂版 「フン族」の解説

フン族
フンぞく
Huns

中央アジアのステップ地帯に住んでいた遊牧騎馬民族。匈奴 (きようど) の一派ともいわれる
375年その一部が黒海北岸を西進して東ゴート族を討ち,西ゴート族を破ってゲルマン民族大移動の原因をつくった。5世紀アッティラのとき全盛となったが,西ローマ帝国軍とゲルマン諸族の連合軍にカタラウヌムの戦いで敗れ,ドナウ川上流域に後退した。ハンガリー(フンガリア)の名称は彼らに由来する。アッティラの死後,内紛と支配下の民族の反乱により解体・滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フン族」の意味・わかりやすい解説

フン族
フンぞく

フン民族」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のフン族の言及

【ローマ】より

…この間にガリアのアルモリカでは農民反乱であるバガウダイの乱が鎮圧されず,ブルグント族もライン下流を渡り進出し,ガリアに入った。ローマの将軍アエティウスはフン族にブルグンドを討たせて2万人を殺戮した。そのフン族もアッティラ王の下に大軍をもってガリアに攻め入ったので,アエティウスは少数のローマ正規軍のほかガリア定住の同盟部族,個別的定住の異民族(ラエティ)を総動員し,451年カタラウヌムの戦でこれを退けた。…

※「フン族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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