静御前(読み)シズカゴゼン

デジタル大辞泉 「静御前」の意味・読み・例文・類語

しずか‐ごぜん〔しづか‐〕【静御前】

源義経の側室。母は磯禅師。もと白拍子。義経の京都退去に従ったが吉野山中で別れ、捕らえられた。鎌倉鶴岡八幡宮で、義経を恋う「しずやしず」の歌を舞って人々を感動させた。しずか生没年未詳。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「静御前」の意味・読み・例文・類語

しずか‐ごぜん しづか‥【静御前】

平安末期から鎌倉初期の女性。母は磯禅師。もと京の白拍子、のちに源義経の側室。義経が頼朝と不和となったことから、吉野落ちに随行、捕えられて鎌倉に送られた。頼朝夫妻に鶴岡八幡宮に召されたとき、義経を恋う歌を歌った話は有名。鎌倉で男児を出産したが、頼朝により由比ケ浜海中に沈められた。静(しずか)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「静御前」の意味・わかりやすい解説

静御前 (しずかごぜん)

平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。しかし翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ,鎌倉に送られて尋問をうけた。同年7月鎌倉で義経の子を出産するが,男児であったため子は由比ヶ浜に沈められ,静は京に帰された。その後の消息は不明。頼朝・政子夫妻の求めにより鎌倉鶴岡八幡宮社前で舞を舞ったとき,義経への恋慕の想いを歌ったことは《吾妻鏡》にみえて有名。
執筆者:

源義経との邂逅以前の静の前半生のことはよくわからない。幸若舞曲《静》は,伏見中将と呼ばれた藤原の公卿を父に擬すが,もとより仮構の伝であろう。《義経記》でも,義経が衰運に向かってから登場する。頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が,義経の堀河館を襲撃したおりに活躍したと,《平家物語》《義経記》には気丈な女性像が描かれる。《吾妻鏡》《義経記》が記す静の動静は,基本的には一致している。鎌倉幕府の正式記録とも目される《吾妻鏡》に,義経の一愛妾の消息が詳記されていることには疑義があり,すでに流布していた静の物語を《吾妻鏡》編纂時に取り込んだものと考えられている。義経の遺児が葬られた勝長寿院が,寺の縁起譚として静の物語を管理していたとの説もある。また,《義経記》では帰洛後静が出家し,天竜寺(田中本は天王寺)の麓に庵を結び,往生を遂げたという。しかし,《異本義経記》(近世前期成立)では,出家後再性と名を改め,南都に住したとか奥州へ下ったとかの説を記している。幸若舞曲《静》にも女人教化の場を彷彿とさせる場面があるが,《曾我物語》における虎御前同様,静を名のる女性唱導者がいたらしい。その足跡寺社の縁起や姓氏・地名にまつわって残存している例が,数多く報告されている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「静御前」の意味・わかりやすい解説

静御前
しずかごぜん

生没年不詳。源義経(よしつね)の妾(しょう)。磯禅師(いそのぜんじ)の女(むすめ)で、もと京都の白拍子(しらびょうし)であった。義経が京都堀川第(ほりかわだい)で兄頼朝(よりとも)の刺客土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)に襲われたとき、機転によって義経を助けた。以後、義経に従い大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎(あまがさき)市大物町)から吉野山に逃れたが、山僧に捕らえられて鎌倉に護送された。鎌倉では義経の所在に関して厳しい訊問(じんもん)を受けたが、静は固く沈黙を守ったという。頼朝の妻北条政子(まさこ)は、静が舞の名手であると聞き、鶴岡八幡(つるがおかはちまん)の神前でこれを舞わせた。工藤祐経(くどうすけつね)が鼓を打ち、畠山重忠(はたけやましげただ)が銅拍子(どうびょうし)を勤めた。静はこのとき、「吉野山峰の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」「しずやしず賤(しず)の苧環(おだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな」と、義経への慕情を歌ったため、頼朝の不興を買ったが、政子のとりなしによって事なきを得た。やがて静は一児を生んだが、頼朝はこれを鎌倉由比ヶ浜(ゆいがはま)に捨てさせた。静を主題とした謡曲に『吉野静』『二人静(ふたりしずか)』があり、浄瑠璃(じょうるり)に『義経千本桜』がある。

[鈴木国弘]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「静御前」の解説

静御前

生年:生没年不詳
鎌倉初期の白拍子。源義経の愛妾。文治1(1185)年11月,義経が兄頼朝と不和になり京都から没落した際,逃避行に同行。雪の吉野山中で別離を遂げたのち吉野山衆徒に捕縛され,翌2年3月,母の磯禅師と共に鎌倉に下向,鎌倉幕府から義経の行方についての尋問を受けた。同年4月8日,鶴岡八幡宮において,頼朝の面前であるにもかかわらず,反逆者義経を恋い慕う歌を毅然と歌った。閏7月29日,義経の男子を出産するが頼朝の命令で殺され,京都に帰る。なお,室町時代の『義経記』は,静に関する説話を増幅した物語として展開しているが,その背景として,静物語を語る巫女など旅をする女性の存在が想定されている。<参考文献>角川源義『語り物文芸の発生』,細川涼一『逸脱の日本中世』

(細川涼一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「静御前」の意味・わかりやすい解説

静御前
しずかごぜん

鎌倉時代初期の人。京都の白拍子で源義経の愛妾。磯禅師の娘。文治1 (1185) 年兄頼朝と不和になり西国におもむく義経に従って,摂津大物浦から大和吉野山へと行をともにしたが,行く先を案じた義経が,京へ帰らせようと別れたところを捕えられ鎌倉に送られた。頼朝の妻政子は歌舞をよくするという静を,鶴岡八幡宮で舞わせた。静は「しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」と義経への慕情を歌った。まもなく男子を産んだが,その子は頼朝のために由比ヶ浜で殺された。静はその後京都へ帰されたが,末路は不明。謡曲『二人静』や浄瑠璃『義経千本桜』などに脚色されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「静御前」の解説

静御前 しずかごぜん

?-? 平安後期-鎌倉時代,源義経の愛妾(あいしょう)。
母は磯禅師(いそのぜんじ)。もと京都の白拍子(しらびょうし)。文治(ぶんじ)元年(1185)源頼朝と対立した義経の都落ちにしたがったが捕らえられ,鎌倉におくられる。頼朝夫妻の求めで歌舞を演じた折,義経を追慕する歌をうたう。義経の子を生んだが殺され,自身はのち放免。その後の消息は不明。後世,能「吉野静」,浄瑠璃(じょうるり)「義経千本桜」などの主題となった。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「静御前」の意味・わかりやすい解説

静御前【しずかごぜん】

源義経の妾(しょう)。生没年不詳。初め京都の白拍子(しらびょうし)。義経に愛され,吉野落ちに従ったが捕らえられ鎌倉に送られた。頼朝夫妻の求めで鶴岡八幡宮前で舞い,義経を恋慕する歌を歌った話は有名。鎌倉で義経の子を出産するが,男子であったため海に沈められ帰京。余生は不明。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「静御前」の解説

静御前
(通称)
しずかごぜん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
花扇邯鄲枕
初演
宝暦12.4(大坂・三桝大五郎座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の静御前の言及

【栗橋[町]】より

…60年代後半以降,東京方面への通勤者が増え,人口も増加している。栗橋駅前に静御前の墓がある。【千葉 立也】
[栗橋宿]
 日光道中第7次の宿駅。…

【船弁慶】より

観世信光(のぶみつ)作。前ジテは静御前。後ジテは平知盛の怨霊。…

※「静御前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android