金沢村(読み)かねさわむら

日本歴史地名大系 「金沢村」の解説

金沢村
かねさわむら

[現在地名]日立市金沢町一―四丁目・金沢町・東金沢ひがしかねさわ町一―五丁目・大久保おおくぼ町五丁目・河原子かわらご町三丁目・千石ちこく町四丁目

東は海岸段丘面、西は多賀山地丘陵で、ほぼ中央を岩城相馬いわきそうま街道が縦貫し、北は大久保おおくぼ河原子かわらご両村。丘陵東麓から海岸段丘面上にかけて、寺前てらまえ遺跡・若宮わかみや遺跡・屋代やしろ遺跡・井戸手前いどてまえ遺跡・長福寺ちようふくじ遺跡など、縄文時代早期から古墳時代後期の遺跡が点在する。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「金沢村」とみえ、「水府志料」の金沢村の条に「飯盛山、立割山、妙見山と云所より金を産す。佐竹氏の時、飯盛尤多く出せしと云。自後寛永より元禄の比迄ほりとりしとなり。村の名よりて名付く」と記される。同書によると村の東西三三町余・南北七町余、文化初めの戸数一五二とあり、助郷は下孫しもまご駅勤めであった。村の物産として、文化九年(一八一二)頃の坂場流謙著「国用秘録」の石灰出所之事の条に、黒寒水石を産出し石灰に焼立てると記録される。

金沢村
かざわむら

[現在地名]花泉町金沢

なか村・清水しみず村の北に位置し、端郷に飯倉いいくらがある。石巻街道が通り、当地から気仙沼けせんぬま街道が分岐する。天正一六年(一五八八)金沢村飯倉城主・大槻おおつき館主大槻但馬守は葛西家臣として浜田安房守討伐に出陣、戦功をあげて葛西晴信から感状を与えられ、加増の宛行を受けている(奥州葛西動乱記)

寛永一八年(一六四一)の金沢村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方一二七町九反余・代一五七貫五二四文、畑方六〇町八反余・代一七貫二五八文、名請人数一三四。正保郷帳には金沢宿とみえ、田方一五三貫四〇七文・畑方一七貫二五八文、ほかに新田高四貫一一七文。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]皆野町金沢

秩父郡の北部、児玉郡境に位置し、東は中野上なかのがみ野上下郷のがみしもごう本野上ほんのがみ藤谷淵ふじやぶち(以上現長瀞町)金崎かなさきの諸村、西は矢納やのう(現神泉村)、南は下日野沢しもひのざわ村、北は太駄おおだ(現児玉町)上阿久原かみあぐはら(現神泉村)岳山麓より発する身馴みなれ川が太駄村と向かい、女岳・岳山麓より発する金沢川が下日野沢村へと向かう。金沢川に沿って北上し、地内出牛じうしを経て児玉郡・上州へ通じる道が通る。「郡村誌」によれば、昔当村は「出牛加増金沢」の三村に分れ、出牛・加増かぞうの二村は児玉郡、金沢は秩父郡に属し、寛文年間(一六六一―七三)に合して一村となったという。しかし、田園簿ではすでに金沢村一村で高付されていたと考えられる。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]大槌町金沢

東は大槌村・小槌こづち村、大槌川の上流金沢川に沿って集落が点在する。北・西・南の三方はいずれも高山で囲まれ、飯岡いいおか豊間根とよまね荒川あらかわ(現下閉伊郡山田町)小国おぐに(現同郡川井村)長沢ながさわ(現宮古市)栃内とちない(現遠野市)の各村々と山嶺で境する。大槌村向川原むかいかわらで浜街道と分れ、大槌川をさかのぼり土坂つちさか峠を越えて小国村に向かう道が通り、また当村から安瀬あせ沢をさかのぼってたか峠・樺坂かばさか峠を越えて遠野に行く道がある。

寛永四年(一六二七)の浜田彦兵衛宛南部利直知行宛行状(盛岡浜田文書)に「大土村ノ内金沢」一五八石余とあり、古くは大槌村の一部であったとも考えられる。

金沢村
かなざわむら

[現在地名]茅野市金沢 青柳あおやぎ

東は中新田なかしんでん村・菖蒲沢しようぶざわ(現諏訪郡原村)、北は坂室新田さかむろしんでん村、西は金沢峠(一三一五メートル)を境に上伊那郡藤沢ふじさわ村・三義みよし(現上伊那郡高遠町)、南は御射山神戸みさやまごうど(現諏訪郡富士見町)に接する。八ヶ岳連峰阿弥陀あみだ岳を源とするみや川と入笠にゆうかさ山を源とする大沢おおさわ川が西北流し、平行して甲州道中(現国道二〇号)が通じている。

嘉暦四年(一三二九)とされる相模守平朝臣高時の下知状には「酒室社御造営 千野 青柳 田沢ノ役」とある(「諏訪史蹟要項」宮川篇)

金沢村
かねざわむら

[現在地名]福島市松川町金沢まつかわまちかねざわ

浅川あさがわ村の東、阿武隈川左岸に位置。東対岸は伊達郡立子山たつごやま村で、鮎滝あゆだき渡で結ばれていた。北端を浅川が東流し、村域は起伏に富む。村名は蟹沢かにざわの大蟹を退治したので名付けられた蟹沢村が転訛したものと伝える(「黒沼神社縁起」黒沼神社蔵)。また治安元年(一〇二一)七人の者が当地に根木内ねぎうち猿田さるた久保くぼなど七軒在家を開いたのが村の始まりとも伝える。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方として「かねさハ」とみえ、段銭は七貫九五〇文。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五七七石余。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]中山町金沢

柳沢やなぎさわ村の南に位置し、白鷹しらたか丘陵の東縁部を南北に走る街道(岡街道)に沿う。地名は地内で砂金が採れたことにちなむといわれる。元和八年(一六二二)山形藩領となり、以降正保元年(一六四四)幕府領、文政六年(一八二三)陸奥白河藩領、慶応二年(一八六六)藩主阿部正静の転封により陸奥棚倉藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高四五六石余。享保期(一七一六―三六)の御料村々高寄帳(阿部文書)では高六一四石余。天明八年(一七八八)の村明細帳(西塔文書)によれば本田高は田方四八〇石余・畑方一〇二石余、新田高一三四石、家数一〇五・人数五二五、御林として松木立が二ヵ所にあり、木数は三千三二二本。

金沢村
かなざわむら

[現在地名]栃尾市金沢・金沢一―五丁目・はら町三丁目

刈谷田かりやだ川右岸に立地し、河川から約一〇メートル内外の低位の沖積段丘から一、二段高い洪積段丘上までのL字形の地形をした村。北は原村・巻淵まきぶち村、南はたいら村。かつて氾濫原はほとんど水田として利用されていた。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に城次郎左衛門尉分の地として金沢がみえる。明応六年(一四九七)の国衙之帳(「古文書集」所収文書)に「一貫百七十三文 飯沼孫二郎殿 金沢」「七十二文 原殿分 金沢」とある。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に高一八七石三斗余。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]南陽市金沢

大谷地おおやち東縁たかツムジ山(六九三メートル)の麓、松沢まつざわ村の北にある。通称むじなの御所ごしよに、高さ一・二メートル、幅二・四メートル、奥行二・八メートルの石室があり、古墳と思われるが遺物は発見されていない。石室に向かって左側に二基の塔婆があり、金剛界大日を表す種子と紀年銘が刻されている。江戸時代には建武四年(一三三七)と読まれていたが、今日では疑問はあるものの建武二年と読まれている。松沢村と同じく寛永年間(一六二四―四四)の新田集落で(「安部右馬之助覚書」安部文書)、背後の十分一じゆうぶいち山の金山採掘にもかかわりがあった。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]鶴岡市金沢・宮沢みやざわ

高館たかだて山の北西麓にあり、西は日本海に面する。高館山より流れ落ちる沢川が集落の中央を流れる。東へ山を越えて大山おおやま村の正法しようぼう寺の北に出る道が通る。北の湯野浜ゆのはま村と地続きに枝郷宮沢村がある。村名は昔、出雲国より移住の七家が当地に居を定め、洗濯をしに沢に行った女性が金塊を発見したことによるともされる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高一一石余で、以後幕末まで村高は変わらない。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]喜多方市熊倉町くまぐらまち新合しんごう

つじ村の南、雄国おぐに山の西麓に位置する。東は雄国新田村、西は宮目みやのめ(現塩川町)、南は常世とこよ(現同上)。集落の西を檜原ひばら峠越米沢街道の上街道が通る。本村の東方に端村山神やまのかみ新田があり、小沼組(古くは大塩組)に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に金沢とみえ、高三〇八石余。寛文五年(一六六五)の「大塩組風土記」によると高三四四石余(うち新田三六石余)、免五ツ三分六厘余、反別は田方二〇町余・畑方九町七反余。綿役金二分・同銀八匁余、山役金二分・同銀一一匁六分、漆木役三〇二本などを負担していた。このうち山役は上利根川かみとねがわ・下利根川・高木たかぎ(現塩川町)など周辺八ヵ村から取立てて納めることになっていた。

金沢村
かねさわむら

[現在地名]塩原町金沢

宇都野うつの村の北、ほうき川右岸に位置し、西部は八方はつぽうヶ原に至る標高八〇〇―一〇〇〇メートルの山地が続く。地名は昔、渓谷から砂金が流出したことによるという。「那須記」に鎌倉時代中頃、当地に家子郎党八〇人余を抱えた盗賊金沢源次入道荒山がおり、正嘉元年(一二五七)芦野七郎らが討取った話を収める。近世は大田原藩領。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉より安堵された所領のうちに金沢三五〇石余がある(年不詳「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)

金沢村
かねざわむら

[現在地名]裾野市金沢

村の北に位置する。東は御宿みしゆく村、西は佐野さの川を挟んで葛山かずらやま村で、北に近在数十ヵ村の入会地である大野おおの原が広がる。建武三年(一三三六)一二月日の長寿寺雑掌元道申状案(田中繁三氏所蔵文書)長寿ちようじゆ寺領として「東郷内金沢村」とみえる。長寿寺は阿野あの庄内にあった京都建仁けんにん永源えいげん庵の末寺で、応永一九年(一四一二)一二月二六日室町幕府は永源庵に「長寿寺、付寺領」等を安堵している(同二〇年六月一五日「管領細川満元奉書写」永源師檀紀年録)。江戸時代の領主の変遷は葛山村に同じ。寛永改高附帳では田高二〇石余・畑高四一石余。

金沢村
かなざわむら

[現在地名]鰺ヶ沢町南金沢みなみかなざわ

東は漆原うるしはら村、北は目内崎めないざき村、南は種里たねさと村に接する。村名の由来には大浦光信の舅の金沢右京亮家信が統治した、鉄鉱石を産出した、金沢という豪族がいたとの三説があるという(西津軽郡史)

貞享四年(一六八七)の検地帳に、目内崎村の支村とあり、村高一七四・五三五石、うち田方一六八・五八八石、畑方五・九四七石とある。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は上とある(平山日記)。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、目内崎村の支村から独立した。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政一〇年(一七九八)に一一二石、文化九年(一八一二)に八五・九石の新田高が書上げられている。

金沢村
かなざわむら

[現在地名]矢祭町金沢

山野井やまのい村の東、久慈くじ川東岸の山間に立地。東に位置する三森みもり山から西へ延びる尾根によって二分され、その南北両側は沢となっている。村名は三森山麓で金が採掘されていたことに由来するという。正保郷帳に村名がみえ高九五石余、うち田一七石余・畑七七石余。元禄郷帳では高九六石余。南側の沢一帯は東舘ひがしだて村の枝郷矢沢やざわ村で高二〇石余(同郷帳)。矢沢はのち当村に組入れられた。天保郷帳では高一一四石余。文化九年(一八一二)宗門改帳(班目家文書)では家数一一・人数七二。名主役は東舘村名主の兼帯が多かったが、磐城平藩領となった文久二年(一八六二)から慶応元年(一八六五)までの間は名主一人が置かれた(「村名主組頭勤役控帳」石井家文書)

金沢村
かねざわむら

[現在地名]原町市金沢

太平洋岸に位置し、「奥相志」に「海浦の間松林翠を凝らし皆名木、絶勝の地なり」と記される。南は北泉きたいずみ村・北高平きたたかひら村、北は丘陵を境として大内おおうち村・烏崎からすざき村・川子かわご(現鹿島町)。かつては「かなざわ」と称したという。正保郷帳では田方一二六石余・畑方一九石余。明暦二年(一六五六)の高二〇五石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高一五八石余。なお元禄検地高は三四八石余、ほかに新田三八石余がある(奥相志)。天保郷帳では高二〇〇石余。天明三年(一七八三)の家数一八、嘉永元年(一八四八)の家数二二(検地石高収納戸口等調)

金沢村
かねざわむら

[現在地名]郡山市田村町金沢たむらまちかねざわ

山中さんちゆう村の東、阿武隈高地西縁丘陵に立地。中世は田村庄に含まれ、永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に、「六段 三百文 かねさわ」とみえ、紀州熊野新宮に三〇〇文の年貢を納めている。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)にも「六段 二百十文 金沢」とあり、「二百九十あれ申候、弓矢ゆへ」との注記がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高七三五石余、田丸氏の知行地。

金沢村
かねさわむら

[現在地名]市原市金沢

国吉くによし村の南方にある。文禄三年(一五九四)八月の佐是之郡金沢之村検地帳(箕橋家文書)では田一三町五反余・畠八町四反余・屋敷五反余で、名請人五〇人(うち屋敷持七)のうち竜福りゆうふく寺・長林ちようりん寺・大蔵だいぞう寺・乗円じようえん坊・安明あんみよう院を含み、一町以上は七人、五反以下は三五人。同年の上総国村高帳に村名がみえ、高一六九石。元禄郷帳では高一一五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳には記載がないが、国吉村と同様に旗本三好領であったとみられ、旧高旧領取調帳では同氏領。

金沢村
かねざわむら

[現在地名]上山市金生かなおい・金生一丁目・東町ひがしまち新金生しんかなおい

川東岸にあり、対岸は長清水ながしみず村。牧野まぎの街道に沿って長方形に屋敷割される。村はもと北東の仙石せんごく村枝郷射留いとめの下屋敷にあったが、寛文元年(一六六一)の洪水により現在地に移ったという(「上山古事録」菅沼文書)。正保郷帳では田方一八三石余・畑方二〇四石余。

金沢村
かなざわむら

[現在地名]水原町金沢

北は大野地おおやち村、西はさと村。里村の枝郷で、寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では大室組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高二五石八斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報