中山町(読み)なかやままち

日本歴史地名大系 「中山町」の解説

中山町
なかやままち

面積:三一・七三平方キロ

郡の北東部、山形盆地の中央西側に位置し、東は山形市・天童市、南は山形市・山辺やまのべ町、西は西村山郡大江おおえ町、北は寒河江さがえ市に接する。町域の北側を最上川が東に流れ、東側を川が北流、町の北東端で両川が合流し、両川に挟まれた東部は肥沃な水田地帯、西部は白鷹しらたか丘陵に属する山地である。町の中央部やや東側を国道一一二号とJR左沢あてらざわ線が南北に走る。町名の由来は中世から近世初頭にかけて当地一帯の領主であった長崎ながさき(中山城ともいう)城主中山氏にちなんだ。

旧石器時代の遺物として、土橋つちはしたき地内の地表より採取された黒曜石彫刻刀がある。縄文時代の遺跡は数多く、遺跡分布は平地部には少なく、西部の丘陵地に多い。丘陵地帯では東麓に沿って長く南北に続く地帯と、丘陵の西陰、うぐいすさわ川の沿岸に多く分布する。古墳時代の遺跡としては長崎字ふちかみ三軒屋さんげんや(物見台)遺跡があり、四―八世紀の竪穴住居群を検出した。同遺跡出土の六世紀の住社式期に並行する土師器は三軒屋式として県内陸部のこの時期の型式指標となっている。達磨寺だるまじ遺跡と周辺地区では平安時代後半の竪穴住居集落跡や鍛冶工房的な集落遺構が発掘されている。

中山町
なかやまちよう

面積:六〇・三二平方キロ(境界未定)

西伯郡の東端に位置する。東は東伯とうはく赤碕あかさき町・東伯町、西は名和なわ町・大山町に接し、北は日本海に臨む。南方には大山の東に連なる矢筈やはずヶ山(一三五八・六メートル)かぶとヶ山(一三三八メートル)勝田かつたヶ山(一一四九メートル)などがあり、これらを水源としてきのえ川・下市しもいち川・みや川が北流する。町域は主として大山山麓台地にあり、山林と田畑が大部分であるが、東西五キロに及ぶ海岸部には御崎みさき逢坂おうさか(塩津)などの漁港がある。JR山陰本線および国道九号が沿海平野部を東西に走る。

縄文―古墳時代の遺物の出土は多く、遺跡数二二五ヵ所を数え、そのうち古墳は小規模ではあるが一五四基を数える。おもな遺跡として、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴住居跡などを検出した八重第三やえだいさん遺跡や古墳時代後期後半の築造とみられる岩屋平いわやなル古墳、下市川流域の古墳群に位置する岩屋堂いわやどう古墳がある。

中山町
なかやまちよう

面積:七四・七七平方キロ

松山市南方約二〇キロ、伊予郡の南部を占める四国山地中の町。佐田岬さだみさき半島に延びる石鎚いしづち連峰の階上はじかみ(八九八・六メートル)秦皇しんこう(八七四メートル)黒岩くろいわ(六九九メートル)を結ぶ線が町の中央部を東西に貫いている。北の伊予市、東の砥部とべ町・広田ひろた村、西の双海ふたみ町、南の喜多きた内子うちこ町とは標高五〇〇―九〇〇メートルの分水嶺で接するが、内子町に流下する中山川の流路は標高約一三〇メートルとなっている。中山川と栗田くりた川が階上山の北麓に発し、前者は西に流れ佐礼谷されだにの支流を合わせて南流し、後者は東南に流れる。二つの川は秦皇山を大きく囲むように流れて、ほぼ町の中央部で合流し、ここに中心盆地を形成している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山町」の意味・わかりやすい解説

中山〔町〕
なかやま

山形県中東部にある町。寒河江市の南,山形市の北西に位置する。 1954年長崎町豊田村が合体し成立。地名は中世に一帯の領主であった中山氏にちなむ。最上川流域の平地は水田地帯で,丘陵地の豊田地区ではリンゴなどの果樹栽培が行われる。長崎城 (中山城) は,中世寒河江大江家の支城として築かれた。山形市の近郊住宅地としての役割も強まっている。 JR左沢 (あてらざわ) 線が通る。面積 31.15km2。人口 1万746(2020)。

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