秩父郡(読み)ちちぶぐん

日本歴史地名大系 「秩父郡」の解説

秩父郡
ちちぶぐん

面積:七九六・五二平方キロ(境界未定)
横瀬よこぜ町・東秩父ひがしちちぶ村・長瀞ながとろ町・皆野みなの町・吉田よしだ町・小鹿野おがの町・両神村りようがみむら荒川あらかわ村・大滝おおたき

県の北西部、かつての武蔵国北西部の山間地一帯を占める。近世の秩父郡は現在の秩父郡・秩父市の全域と、飯能市・入間いるま名栗なぐり村・大里郡寄居よりい町・児玉郡神泉かみいずみ村・比企郡都幾川ときがわ村の一部を含み、西は甲斐国、北は上野国、児玉郡・那賀なか郡・榛沢はんざわ郡、東は男衾おぶすま郡、比企郡・入間郡・高麗郡、南は多摩郡に接していた。郡名は知々夫国造に由来。六―七世紀の墓制から、荒川北岸の秩父・児玉・大里地方には徳利型の横穴式石室が分布するという特徴が知られ、この地域が知々夫国造の支配領域であったと考えられている。

〔古代〕

慶雲五年(七〇八)一月、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、朝廷はこれを慶して和銅と改元、武蔵国の当年の庸および当郡の調庸を免除した(続日本紀)。平城京出土木簡に「武蔵国秩父郡大贄一斗 天平十七年」と書かれた付札がある。とは豆に塩を混ぜた味噌のようなものである。「延喜式」の交易雑物に武蔵国から六石五斗を出す規定があるので、奈良時代から引続き納められていたことがわかる。「万葉集」巻二〇の防人歌に「助丁、秩父郡大伴部少歳」の作があり、奈良時代に大伴部の人々が郡内に居住していたことが知られる。知々夫国造は大伴氏の始祖高皇産霊尊に連なる始祖伝承をもっており、大伴氏の勢力が当郡に及んでいたとみられる。

平安時代には東国の諸牧から馬が朝廷に貢上され、毎年駒牽が行われるようになり、諸史料に秩父御馬の駒牽の記事が散見する。承平三年(九三三)石田いわた牧と阿久原あぐはら牧を含む朱雀院秩父牧は勅旨牧に指定されたが(同年四月二日「太政官符」政事要略)、両牧は現在の長瀞町・児玉郡神泉村にあったものと推定されている。「和名抄」では知々夫と訓じ、郡内には巨香こか上科かみしな美吉みよし丹田にた中村なかむら余部あまるべの六郷があった。式内社秩父神社(妙見宮)は八意思兼命・知知夫彦命を祀っているが、「旧事本紀」は崇神朝に八意思兼命の末流、知知夫彦命が知々夫国造に任命されたと伝えている。坂東八平氏秩父氏の根拠地であった。秩父氏は高望王の子孫、村岡次郎忠頼の子将常が武蔵権守となり秩父郡中村なかむら(現秩父市)に本拠を定め秩父氏を称したことから始まるといわれている。将常の子武基は秩父別当を名乗ったとされる。同牧の別当職にあたると考えられ、牧の公職を通してその勢力を拡大していったものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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