耶律楚材(読み)やりつそざい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材
やりつそざい
(1190―1244)

モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)、諡(おくりな)は文正、号は湛然居士(たんぜんこじ)。耶律氏は(りょう)の王族の出身で代々(きん)に仕えた。楚材は天文地理、数学、医学、儒教、仏教、道教に通じていた。1215年モンゴル軍が燕京(えんけい)(北京(ペキン))を占領したときチンギス・ハンに降(くだ)ってその政治顧問となり、西域(せいいき)遠征に従った。オゴタイ即位尽力し、中書令として重用された。金の滅亡後(1234)、華北の土地に適した政策を実施し、軍政と民政とを分離して軍官が民政に干渉せぬようにし、また、税制を整備して帝国の経済的基礎を確立したが、オゴタイ・ハンの死(1241)後は左遷された。詩人、文人としても優れ、文集『湛然居士集』、西域遠征に従った際の見聞記『西遊録』がある。楚材の子の鋳(ちゅう)(1221―85)も世祖フビライに仕えて高官となり、とくに詩人として有名である。

[護 雅夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材
やりつそざい
Ye-lü Chu-cai; Yeh-lü Ch`u-ts`ai

[生]1190
[]1244
モンゴル帝国初期の功臣,文学者。字,晋卿。王室の一族で,父は重臣耶律履。初め金に仕えたが,その滅亡後はモンゴル帝国の太祖チンギスハンに招かれ政治顧問となり,太宗オゴデイにも信任されて宰相となり,内政に貢献した。早くから文学,天文,暦法,医薬を学び,モンゴルに中国文化の影響を与えた。また詩文にすぐれ,その詩は初期元詩中一頭地を抜く。チンギス・ハンとともに西征した旅行記『西遊録』およびその際詠んだ詩は,歴史,地理,風俗の貴重な資料となっている。詩文集『湛然居士集』 (14巻) 。

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デジタル大辞泉 「耶律楚材」の意味・読み・例文・類語

やりつ‐そざい【耶律楚材】

[1190~1244]モンゴル帝国初期の功臣。あざな晋卿しんけいおくりなは文正。契丹族に属し、りょうの王族の子孫に仕えたが、チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立。文集「湛然居士集」、見聞記「西遊録」。

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精選版 日本国語大辞典 「耶律楚材」の意味・読み・例文・類語

やりつ‐そざい【耶律楚材】

蒙古帝国の功臣。字(あざな)は晉卿。諡(おくりな)は文正。遼の宗室の子孫で、金に仕えたが、金滅亡後、ジンギス=カンの政治顧問となり、つづいてオゴタイの宰相となった。著に「湛然(たんぜん)居士集」など。(一一九〇‐一二四四

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百科事典マイペディア 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材【やりつそざい】

モンゴル帝国初期の重臣。の王族の子孫,代々朝に仕えた。1215年チンギス・ハーンに降伏し,その政治顧問となり,西域遠征に従った。オゴタイ・ハーンの即位に尽力,宰相として,中国経営の基礎を築く。

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世界大百科事典 第2版 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

やりつそざい【耶律楚材 Yē lǜ Chǔ cái】

1190‐1244
モンゴル朝初期の政治家。遼の太祖耶律阿保機の子孫であるが,本人は太祖の長子東丹王倍の血を引くことを誇りとする。父の耶律履は金に仕えて尚書右丞まで進んだ。楚材は生後1,2年で父を失い,母楊氏に教育され,金の章宗の代に科挙に1位で合格した。モンゴル軍の侵入に際しては,左右司員外郎として中都(北京)にあり,その陥落にともなってチンギス・ハーンに仕えることになった。ハーンは彼を〈ウト・サカル〉(長い髯(ひげ))と呼び,側近で重用した。

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